一般道を160km走行した末の死亡事故が「過失運転致死」のはずがない、遺族の努力で「危険運転致死」に訴因変更
2024.10.15(火)
法定速度を100キロもオーバーする時速160キロでの追突死亡事故で、先週(2024年10月10日)、新たな動きがあった。宇都宮地検が遺族の度重なる要望を受け、被告の起訴内容を「過失運転致死」の罪からより法定刑の重い「危険運転致死」に変更したのだ。事故発生から1年8カ月。なぜこれほど時間がかかったのか――。遺族からの連絡を受け、メディアで最初に本件を取り上げたジャーナリストの柳原三佳氏が本件の経緯を振り返る。
不意に告げられた「訴因変更」の知らせ
「素直に嬉しいです。ずっと長い間待っていたことなので。これでやっと土俵に上げていただき、とても感謝しています」
10月10日、宇都宮地検から「危険運転致死へ訴因変更をおこなう」という方針を聞いた佐々木多恵子さんは、安堵した口調でこうコメントしました。
このニュースは多くのメディアで全国的に報じられたので、目にした方も多いのではないでしょうか。
(外部リンク)事故から1年半以上… 時速160キロ追突死亡事故 宇都宮地検が危険運転致死罪に変更請求 遺族「やっと土俵に上がった」(TBS NEWS DIG)
実は前日の夜、筆者が多恵子さんと電話で話したとき、彼女は少し疲れた様子で、
「明日、新たな署名を届けるために宇都宮地検に行く予定です。今回の署名提出で、すでに7回目になります。検察官との面談も含めれば、いったい何度地検に足を運んだかわかりません。検察は訴因変更に対して前向きに検討しているとは言ってくれているのですが、なかなか答えが出ず、この先どうしようかと……」
そう話していました。それだけに翌日、「訴因変更」が告げられたことは意外でしたが、本件の刑事裁判は事故発生から1年8カ月たってようやく、「危険運転致死罪」として再開されることになったのです。
しかし、ここに至るまでには、遺族としての大変な努力があったのです。おそらく、多恵子さんが行動を起こさなければ、すでに刑事裁判は「過失」で判決が下され、終わっていたでしょう。
会社からの帰宅途中に起こった突然の事故
多恵子さんから初めてメールをいただいたのは、2023年5月14日のことでした。そこには、どうすることもできない悲しみが綴られていました。
『主人が突然亡くなってから今日で3か月、未だに、どうしていないのと、何度も問いかけている自分がいます。もちろん、返事など返ってくることはありません。でも、あの日主人は、意識を失いながら何を考えていたのだろう、最後に何を言いたかったのだろう、どんな思いで亡くなったのだろうと考えると、本当に辛くて仕方ありません』
事故で亡くなった夫の佐々木一匡さん(遺族提供)
事故が起こったのは2023年2月14日、午後9時35分ごろのことでした。その夜、アルバイトの石田颯太被告(当時20)は、乗用車(トヨタ・クラウン)で宇都宮市下栗町の新4号国道を走行中、前を走っていた会社員・佐々木一匡さん(63)のスクーターに追突したのです。
事故現場での再検証の様子(遺族提供)
仕事を終えて帰宅途中だった一匡さんは、多発外傷と胸部大動脈損傷を負い、およそ1時間後に死亡。石田被告は、事故から約1時間後、過失運転致傷の疑いで現行犯逮捕されました。
3月7日、検察は石田被告を過失運転致死で起訴。4月には早くも刑事裁判が始まりました。しかし、事故の真実が少しずつ明らかになるにつれ、多恵子さんは、『この事故が“過失”で裁かれていいのだろうか、このまま黙っていてはいけないのではないか……』そう思うようになったといいます。
友人のバイクと“競争”の末の事故
「実は、捜査の中で防犯カメラの映像が解析され、加害者は衝突地点の200メートルほど手前で時速161~162km出していたことが判明しました。現場の法定速度は時速60kmです。加害者はこの道で100kmもオーバーしてアクセルを踏み続け、その挙句、前を走っていたバイクに気づかず追突し、主人を死なせたのです」
時速160kmでの追突、その衝撃の大きさは双方の事故車にしっかりと刻まれていました。以下の写真は、一匡さんが死の間際までまたがっていたスクーターを多恵子さんが警察署で撮影したものです。実は、事故車を一度も見ていないという多恵子さんに、「つらいと思いますが、今すぐ写真を撮っておくべきです」と助言したのは私でした。事故処理の理不尽さを第三者に訴えていくには、現実を直視すること、そして証拠を独自に保全することが不可欠だと思ったからです。
一匡さんが乗っていたスクーター(遺族提供)
この写真が送られてきたとき、私は多恵子さんの覚悟を見た思いがしました。スクーターは、リヤショックがちぎれ、フレームは持ち上げられ、車体はVの字に折れ曲がっています。もはやライダーが乗るスペースはどこにもありません。
取り残されたリヤタイヤをよく見ると、アルミ製のホイールが砕けているのがわかります。原形をとどめないほど破損した夫の事故車を直視する……、どれほどの勇気が必要だったことでしょうか。
一匡さんが乗っていたスクーター。車体はV時に折れ曲がり、後輪のアルミ製ホイールも砕け散っている(遺族提供)
「加害者は衝突直前、友人のバイク2台と競争のような走りをしていたこともわかっています。そもそも、一般道で162kmも出し、死亡事故を起こすという行為は、危険運転致死傷罪の『制御することが困難な高速度』には当てはまらないのでしょうか。
この無謀で残虐な行為を、単なる不注意による“過失”で済ませてよいのか……、私はどうしても納得できなかったのです」(多恵子さん)
しかし、当時の検察の説明は、
「加害者の車は、事故を起こすまではまっすぐに走れていた、つまり『制御できていた』ので、危険運転には当たらない」
というものでした。
すでにこのとき、第1回公判は済み、2回目の期日が決まっていました。「危険運転致死罪」への訴因変更を求めるとすれば、一刻の猶予も許されない状況でした。
これが危険運転でなければいったい何が危険運転になるのか
そんな中、多恵子さんはあきらめることなく、新たに危険運転に詳しい弁護士を捜して協力を求め、検察庁に危険運転での訴因変更を申し立てて裁判を中断させ、7万5000筆もの署名を集め、世論に訴えかけたのです。
訴因変更を求めて市民に署名協力を呼び掛けるチラシ(遺族提供)
そして、事故発生から1年8カ月が経とうとする10月10日、その努力がついに実ったのです。
被害者支援代理人として多恵子さんのサポートをおこなってきた高橋正人弁護士は、訴因変更が決まった10月10日付のブログ(危険運転致死罪へ訴因変更を請求 | 高橋正人法律事務所のブログ )にこう記しています。
『当初、捜査を担当した副検事さんは、加害車両は、事故を起こすまで正常に運転していたから「制御できていた」、だから制御困難な高速度ではなかったという理屈で遺族に説明し、過失運転致死罪で起訴してしまいました。どうして、時速160kmで一般道を走行して制御できるのか、理解困難な説明だと思います。
そもそも、制御できなかったから事故を起こしたはずなのに、事故を起こすまで事故を起こしていないから事故の時も制御できていたという理屈が成り立つなら、危険運転致死傷罪は、エンジンをかけた瞬間に事故を起こさないかぎり成立しないことになってしまいます。否、過失運転致死罪すらも成立しないことになってしまいます。なぜなら、過失運転致死罪も不注意だったからこそ事故を起こしたのに、事故を起こすまで注意深く運転していたから事故の時も不注意ではなかった、ということになりかねないからです。このようなことを法が許しているとは到底、思えません』
「危険運転致死罪」への訴因変更を求めて検察に意見書提出
本件事故で亡くなった一匡さんは本田技術研究所に勤務するエンジニアで、長年、自動車の安全に関する研究を続けてきました。自身でまとめたワークシートの中には、『2050死者ゼロ目標に感銘を受け、何とか実現させたいともがく日々』という記載もありました。
(外部リンク)Honda | 2050年交通事故死者ゼロに向けた、先進の将来安全技術を世界初公開
多恵子さんは語ります。
「主人はホンダの掲げた『交通事故死者ゼロ』の目標に向けて、日々取り組んでいました。交通事故被害をなくすため、信念を持って仕事を続けてきた人が、無謀な運転によって一方的に命を奪われるとは……。主人の気持ちを思うと本当に無念でなりません。
主人は『車』という武器で殺されたとしか思えません。命あるものに対して行った残虐な行為、何の落ち度も、罪もない人の命を奪った事実に対して、裁判所には厳しく裁いていただきたいと思います。失われた命は二度と取り返すことができないのです」
交通事故の中には、不幸な偶然が重なって起こるものと、飲酒、信号無視、超高速運転など、ルール無視の無法者によって、起こるべくして引き起こされるものがあります。「危険運転致死傷罪」は、後者のような事故を起こした運転者を厳格に裁くために設けられたはずですが、その適用にこれほど高いハードルがあるのはなぜなのでしょうか。
現在、法務省では、こうした悪質運転による交通事故に対処するため、「自動車運転による死傷事犯に係る罰則に関する検討会」を開き、刑法の専門家や交通事故遺族らで議論を進めています。
今も悪質運転による多くの被害者遺族が疑問を抱きながら苦しんでいます。明確な適用要件や類型の見直しが急がれます。