19歳大学生は40m先に跳ね飛ばされた…飲酒ひき逃げ無免許の人殺しは謝罪せず7年後にブラジルへ逃げた
「危険運転致死傷罪」が遺族を苦しめるという矛盾
2023.12.16(金)
危険運転の厳罰化によって設けられた「危険運転致死傷罪」に、遺族が苦しめられるケースが相次いでいる。ジャーナリストの柳原三佳さんは「無免許、無車検、無保険で、飲酒ひき逃げ死亡事故を起こしても、今の法律では危険運転として裁けない。遺族の怒りの声、苦しみから生まれた法律が遺族を苦しめている」という――。
ブラジル国籍の男が運転していた乗用車。
危険な運転をしても「危険運転致死傷罪」で裁けない
飲酒、赤信号無視、著しいスピード超過、無免許……、このような悪質で危険な行為によって引き起こされた事故が、なぜ「過失」で処理されるのか。
家族を失った遺族らによる疑問と怒りの声を受け、2001年の刑法改正で新設された「危険運転致死傷罪」。新法が成立して今年で22年となるが、ここへきて条文を見直すべきではないか、という議論が活発になっている。
法定刑は最長で懲役20年に引き上げられたものの、現実には「故意」立証のハードルが極めて高い。客観的に見て「危険運転」と思われるケースでも、この罪が適用されず「過失」で起訴されるケースが相次いでいるのだ。
2021年2月に大分市の県道交差点で起きた時速194キロの衝突死亡事故も、当初は「過失」で起訴された。また、今年2月、宇都宮市で起こった時速162キロでの追突死亡事故も、同じく運転手は「過失」で起訴されており、遺族は今、検察に「危険運転」で起訴するよう申し入れているところだ。
危険運転に対する重い刑罰が新設されたというのに、結果的に「過失」として処理された被害者遺族の悔しさ、無念さ……。それは、まさに国家による二次被害だ。当事者たちは長年にわたって精神的な苦痛を強いられている。
19歳の長男を失った父親の苦しみ
眞野さんの自宅に事故の第一報が入ったのは、2011年10月30日午前4時半頃のことだった。
「息子さんがひき逃げ事故に遭い、これから名古屋医療センターに運びます」
それは、救急隊から要件のみを告げる短い電話だった。
父親の哲さん(当時50)が仕事で不在だったため、先に母親の志奈さんが病院へ駆けつけると、医師から『脳には空気が入り、手術は不可能です。もう、手の施しようがありません』と説明を受けた。志奈さんは何を言われているのかも分からないまま、ただ茫然と、夫が到着するのを待つしかなかった。
まもなく哲さんが病院に到着。午前5時半頃、眞野さん夫妻の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。血だらけで処置室のベッドに横たわっていた長男の貴仁さん(当時19)の意識はなく、頭がい骨は大きく陥没。耳や鼻など、いたるところからの出血もみられる。
「そのとき、息子はまだ息をしていました。それなのに、最愛の息子が死んでいくのを、ただ待つしかない……。私たちは、現実を直視することができませんでした」
運転手は無免許、無保険、無車検で、飲酒ひき逃げ
そんな中、病院に詰めていた警察官から、ひき逃げ犯らしき男が確保されたという情報が入った。はっきりしたことはまだ分からないが、無免許のブラジル人で、保険にも一切入っていないという。
「このときは、生死をさまよう息子のことで頭がいっぱいで、何も考えることができませんでした。しかし、加害者の人物像を聞き、とんでもない相手と、とんでもないことになってしまった、これからどうなるのか……と、不安で押しつぶされそうでした」
それから数時間後、午前9時すぎ、貴仁さんは息を引き取った。
あまりに大きすぎるショックと悲しみは、人の感覚を麻痺させてしまうのだろうか。眞野さんは「まるで、夢の中にいるようだった」と振り返る。
その後はただ淡々と、通夜、葬儀の準備に追われるだけだった。
貴仁さんは、平成4年生まれ。三人兄弟の長男で、事故の2週間前に19歳の誕生日を迎えたばかりの大学1年生だった。
眞野貴仁さん(当時19歳)。通学に利用していた道で乗用車に跳ねられ死亡した。
テキーラをショットグラスで6杯、生ビールを中ジョッキ3杯
大学生活を謳歌おうかしていた貴仁さんの命を一瞬にして奪ったのは、ブラジル国籍の男(当時47)だった。サンパウロ州の高校を卒業後、農業などを経て、20歳のときに農機具を作る仕事に従事。翌年、日系3世の女性と結婚し、32歳のとき友人のつてを頼って日本に入国した。
愛知県の派遣会社に登録したこの男は、コンピューターの部品会社などに勤めていたが、その後、自動車部品を作る会社に職場を移す。しかし、当時の不況の波は自動車関連の下請け企業に容赦なく押し寄せ、いわゆる「派遣切り」に。その後、約1年間は無職だったが、事故の2週間前、ようやくパチンコ台の部品を作る会社に派遣社員として雇用された。
この会社には送迎用のバスがあり、通勤にマイカーを使う必要はなかったが、男の無免許運転は常習化していた。数年前に別居してブラジルに戻った妻名義の普通乗用車を3年ほど前から日常の足とし、さらに、事故前年の6月には車検も自賠責も切れていたことを知りながら、それを更新する経済力がなかったという理由で、そのまま乗り続けていたのだ。そして、結果的にこの車が「凶器」となった。
2011年10月29日(土)、その夜、友人からハロウィンパーティーに誘われたこの男は、車を運転し名古屋市中区のディスコに出かけた。報道によると、この店で「友人数名と共にテキーラをショットグラスで6杯、生ビールを中ジョッキ3杯くらい飲んだ」と供述したという。
自転車もろとも約40メートルはね飛ばす
翌午前0時45分頃、ディスコを出た男は近くの店をのぞくなどしていたが、今度は小牧市内のナイトバーへ行くため、午前3時半頃、再び車を運転して走り始めた。
信号待ちで停止していた乗用車に追突する事故を起こしたのは、その途中のことだった。
無免許、しかも飲酒運転で警察に捕まるのが怖くなった男は、そのまま現場から逃走。追跡を免れるため、国道からわき道にそれ、前照灯を消したまま一方通行を逆走。そして、午前3時49分、清水3丁目交差点で、今度は自転車に乗って横断歩道を横断中だった貴仁さんに衝突したのだ。
愛知県警が作成した現場見取り図によると、貴仁さんは自転車もろとも約40メートルはね飛ばされ、道路に投げ出された。しかし、男は大量の血を流して倒れていた貴仁さんを救護するどころか、車から降りることもせず、クモの巣状に割れたフロントガラスの隙間から前をのぞくようにしながらアクセルを踏み込んで、民家の塀に車をぶつけ、タイヤをバーストさせた状態でさらに逃走を続けた。
目撃者の証言によると、男が運転する乗用車が現場付近の一方通行に侵入した際、時速100キロ程度だったという。
眞野貴仁さんが乗っていた自転車。乗用車に衝突され、大きく変形している
警戒中の警察官によって確保されたのは、それから約1時間半後の午前5時半頃だった。
このときの所持金は7000円。
「これが全財産だ」
そう供述していたという。
貴仁さんは友達の待つカラオケ店に向かっていたが、たどり着くことはできなかった。
名古屋地検は「過失運転」で起訴した
事故から約2カ月後、名古屋地検は加害者の男を道路交通法違反、自動車運転過失致死、自動車運転過失傷害被告事件の被告人として正式起訴した。公訴事実には以下の事実が列挙されていた。
(1)無免許で、呼気1リットルにつき0.15ミリグラム以上のアルコールを身体に保有する状態で、無車検、自賠責契約が締結されていない普通乗用自動車を運転して運行の用に供した。
(2)前方を注視し、道路状況に応じて徐行するなど進路の安全を確認しながら進行すべき注意義務があるのにこれを怠り、漫然時速約50ないし60キロメートルで進行した過失により、自転車を運転して進行してきた眞野貴仁(当時19歳)の自転車に衝突させて同自転車もろとも同人を路上に転倒させるなどし、前頭部打撲に基づく広範囲脳挫傷により死亡させた。
(3)自己の運転に起因して人に傷害を負わせたのに、直ちに車両の運転を停止して同人を救護する等必要な措置を講じず、直ちに最寄りの警察署の警察官に報告しなかった。
「公訴事実」の中に、これだけ悪質運転の事実が列挙されているのに、なぜ、『危険運転致死傷罪』が適用されないのか。これが危険運転でないなら、どんな運転を「危険運転」というのか。
父親は「危険運転」の適用を求めたが…
加害者と対峙たいじするのは辛かったが、それでも傍聴席で黙って見ているより、一言でも自分の言葉で疑問をぶつけたいと思った眞野さんは、「被害者参加制度」を利用し、刑事裁判に参加することを決めた。
「被害者参加制度」とは、犯罪被害者や彼らの委託を受けた弁護士が「被害者参加人」という立場で刑事裁判に参加する制度のこと。2008年12月1日以後に起訴された事件から導入された。被害者参加人になると、原則として法廷で検察官の隣に着席して裁判に出席することができ、証拠調べの請求や論告・求刑など、検察官の活動や法律の適用などについて意見を述べたり、説明を求めたりすることができる。また、被告人や証人に対して直接質問することもできるのだ。
初公判は2012年1月12日、名古屋地方裁判所で開かれた。しかし、このまま「過失」で裁判が進んでしまうことがどうしても許せなかった眞野さんは、2月15日に予定されていた第2回目の公判までに署名活動を行い、3度にわたって名古屋地検に足を運び、危険運転への変更を求めた。
しかし、2度目の面談を終えたその夜、電話の向こうの眞野さんの声は、いつになく沈んでいた。
「息子は犬死です」
「弁護士と共に名古屋地検に出向くと、検察庁の中でも責任ある立場の者が話をしたいとのことで、古崎孝司検事と交通部長の互淳史検事が席に着きました。彼らは『今回の事件においては危険運転にあたる要件はひとつもありません』そう言いました。その理由は、『加害者は逮捕後、片足でまっすぐに立てたので、飲酒運転とはいえない』『事故を起こすまで細い道をまっすぐに走っているので、“正常な運転ができなかった”とはいえない』『一方通行逆走も、赤信号をことさら無視という条文の文言には当てはまらない』『無免許でも、長い間乗っていれば技術がある』というのです」
そして、3月12日、午後4時。名古屋地方裁判所で下されたのは、自動車運転過失致死罪で懲役7年。危険運転致死傷罪どころか、検察が求刑した懲役10年にも満たない刑罰だった。事故当時のスピードは時速50~60キロとした公訴事実通りに判決が下された。
刑務所に収監されていた被告はすでに刑期を終えて出所したが、遺族である眞野さんには民事の賠償も、直接の謝罪もいっさいないまま、ブラジルへ帰国。現在も行方が分からないままだという。
眞野さんはため息をつきながら語る。
「飲酒、ひき逃げ、無免許、無車検、無保険、逃走中に無灯火で、一方通行逆走。こんな悪質な運転を『過失のうっかり事故』で裁かれたら、息子は犬死にです。何のために生まれてきたのかわかりません。しかし、これが危険運転致死傷罪の現実なんです」
長男・貴仁さんが渡り切れなかった横断歩道を見つめる父・眞野哲さん
検討ばかりの岸田首相が一歩踏み込む
11月22日の国会・予算委員会で、岸田首相がこの問題について初めて答弁する場面があった。質問者は緒方林太郎議員だ。まずはその一部を抜粋してみたい。
【緒方議員】危険運転致死傷罪について総理にお伺いしたいと思います。この罪は1999年、東名高速道路飲酒事件をきっかけとして、悪質な危険運転の故意犯を切り出して作ったものです。しかしながら、これまでの判例を見ていると、正常な運転が困難な状態とか、進行を制御することが困難な高速度とか、進行を制御する技能を有しない、といった法の規定が不明確なんですね。
判例でも、一般道を150キロを超えるスピードで爆走して起こした死亡事故とか、無免許、飲酒、当て逃げ後の逆走、無灯火、無車検、無保険で起こした死亡事故であっても適用がないというような、一般国民の理解を超えた状況にございます。私はこの件をずっと国会で取り上げておりまして、この見直しについて、現在、平沢勝栄先生をトップとする与党のPT(プロジェクトチーム)でも検討がなされていると聞いております。
これまで私が法務省から得ている答弁は、「十分な検討」とか「慎重な検討」とか、そういった表現でした。岸田総理、かねてから「けんとうし、けんとうし」と言われておりますが、今日はもう、ただただ「検討する」とだけ言っていただきたいと思いますが、総理大臣、この要件の見直しについて答弁いただければと思います。
【岸田総理大臣】危険運転致死傷罪につきましては、委員ご指摘のように「構成要件が不明確である」「適切にこの法律が適用されない」こうしたさまざまなご意見、ご指摘があることは承知しております。その上で、自民党においても、交通安全対策特別委員会にPTを設置して議論を行っている次第であります。所管の法務省の対応として検討をすると申し上げており、適正に対応するものと考えております。
【緒方議員】それだけでもかなりの前進でありまして、小泉法務大臣、よろしくお願い申し上げたいと思います。
遺族の声から生まれた法律だったのに…
岸田首相の答弁にもあるように、これまで多くの被害者遺族が「構成要件が不明確」だとして、「危険運転致死傷罪」の条文見直しを求め、声を上げてきた。しかし、現状の条文でも十分に「危険運転」に問える事案であっても、検察のこじつけのような判断で起訴が見送られてきたのも事実だ。
緒方議員がこの質疑の中で取り上げた『無免許、飲酒、当て逃げ後の逆走、無灯火、無車検、無保険で起こした死亡事故』は、実際に2011年のハロウィンの日に、名古屋市内で起こった先述の死亡事故だ。
実は本件については、事故の翌年、3人の議員によって、かなり具体的に国会で取り上げられ、運用の理不尽さが指摘されていた。
●2012年2月29日、予算委員会/中島正純議員、松木けんこう議員。
違法行為の上に違法行為を重ね、順法精神のかけらもないようなドライバーによる悪質な事故が、なぜ「危険運転」に問われなかったのか――。この事故で大学生だった長男の命を奪われた父・眞野哲さんは、当時から筆者のもとに悲痛な声を寄せ続けてきた。そして、事故から12年経った今も納得できずにいる。
危険運転致死傷罪をめぐる問題は進展しないまま、時間ばかりが過ぎてしまった。そして、危険な運転によって大切な人を失った遺族たちに、言葉では言い表せない苦痛を強いているのだ。
※写真はイメージです
ようやく政治が動き始めた
ようやく政治が動き出したのは今年10月に入ってのことだ。
10月18日、自民党は交通安全対策特別委員会に「危険運転致死傷のあり方検討PT(プロジェクトチーム)」を発足。まず政府から現状について説明を聞き、11月15日には被害者遺族と被害者支援弁護士からヒアリング。さらに11月末には刑法学者をはじめとする有識者の意見を聞いて取りまとめた上、12月には政府等への申し入れを検討しているという。
座長は、11年前に眞野さんの事故を内閣委員会で取り上げ、警察庁や法務省を厳しく追及した平沢勝栄衆院議員だ。
そして、眞野さんは今、危険運転の問題だけでなく、ある目標に向かって取り組んでいるという。
「私自身、息子の事故から奈落の底に落ち、心は再起不能で、今でも悲しい気持ちは全く変わりません。しかし、事故直後から悲しみに浸る余裕もないまま、国から受けるさまざまな理不尽に直面し、苦しんできました。北欧のスウェーデンやノルウェーには犯罪被害者庁というものがあり、国としての被害者支援が充実しています。たとえば、賠償能力のない加害者に代わって、国が被害者への賠償金を立て替える制度があるのです。私は日本にも被害者庁を作り、犯罪被害者に手を差し伸べるべきだと思っています。そして、この先の人生、それにかけようと思っています。私は、この世で一番大切なものをなくしたので、もう怖いものはありません」
国家による二次被害を生み出さないために
眞野さんは、次の被害者遺族が自分たちのように苦しい思いをしないでほしいという。そのためにも、まずは悪質な運転による事故を「危険運転」として真っ当に裁き、同種事案を防ぐための抑止につなげていくことが重要ではないだろうか。
遺族の怒りの声や苦しみから生まれた「危険運転致死傷罪」が遺族を苦しめる法律になっている現状がある。これを今すぐ改善するべきだ。眞野さんをはじめとする多くの被害者遺族の思いを背負った「危険運転致死傷のあり方検討PT」の動きに注目していきたい。