理不尽な暴走車両から身を守る方法はこれしかない…21年間、息子の車椅子を押し続ける母親からの訴え
「自転車用ヘルメット」という安全装備の意義
2023.6.30(金)
4月から自転車を利用するすべての人に「ヘルメットの着用」が努力義務になった。なぜヘルメットが必要なのか。ジャーナリストの柳原三佳さんは「自転車は身近で便利な乗り物だが、転倒や衝突事故によって頭部にダメージを受け、重症化するケースが多い。身を守るには、ヘルメット着用は最重要の安全装備になる」という――。
山本一真さんは2002年7月、自転車で少年野球の練習に向かう途中に事故に遭った。左半身麻痺・高次脳機能障害の後遺症がある。
「自転車のヘルメット着用」が努力義務になった
2023年4月1日、改正道路交通法が施行され、自転車を利用するすべての人に「ヘルメットの着用」が努力義務化されました。
<道路交通法 第63条の11>
第1項 自転車の運転者は、乗車用ヘルメットをかぶるよう努めなければならない。
第2項 自転車の運転者は、他人を当該自転車に乗車させるときは、当該他人に乗車用ヘルメットをかぶらせるよう努めなければならない。
第3項 児童又は幼児を保護する責任のある者は、児童又は幼児が自転車を運転するときは、当該児童又は幼児に乗車用ヘルメットをかぶらせるよう努めなければならない。
「努力義務」というのは、「~するよう努めなければならない」という意味で、「義務」とは異なります。ヘルメットをかぶっていなくても罰則はありません。自転車ヘルメットの着用はどこまで浸透するだろうか……。そう懸念した通り、残念ながら着用率は伸び悩んでいるようです。
着用率については、法改正がされたばかりのため国による全国調査は行われていません。しかし、各地から発信されているローカルニュースからその一端がうかがえます。
例えば、京都新聞は6月3日付朝刊で「自転車ヘルメット着用率、1割届かず 『髪形崩れる』傾向続く」と題する記事を掲載しています。
京都府警が交差点やスーパーで自転車の目視調査を行ったところ、5月は3431人中、ヘルメットを着用していた人は288人(8.4%)。2月に行った調査(着用率は3.9%)に比べて増えてはいるものの、いまだに1割に達していません。
髪形が崩れる、ダサい、暑い…
警察の他、地元の新聞記者たちも定点観測を行い、着用率を調べています。福島県の地元紙・福島民友では、福島、会津若松、郡山、いわきの4市の自転車通行量が多い路線で着用状況を調査。5月5日付の記事によると、計1668人中、ヘルメットを着けていたのは81人で、着用率は4.9%にとどまったそうです。
同様のニュースが多数発信されていますが、いずれも「ヘルメットの着用が努力義務化されたが、普及率は低迷している」といった内容でした。
「髪形が崩れる」
「努力義務だから」
「ヘルメットが何となくダサい……」
「みんなかぶっていないので、一人だけ浮いてしまうのはイヤ」
「ヘルメットが荷物になる」
「暑い」
車椅子で移動する山本一真さん。母せつみさんの介助が欠かせない。
ヘルメットをかぶらない理由を尋ねると、多くの人はこうした理由をあげるようです。通勤・通学で自転車を利用する人が多くいる一方、思春期の学生さんたちは、気恥ずかしさがあるようです。
こうした状況に、兵庫県姫路市の山本せつみさんは、真剣なまなざしでこう訴えます。山本さんは、交通事故の後遺症(左半身麻痺・高次脳機能障害)を抱える長男を介護し続ける母親です。
「ヘルメットをかぶること、もちろんイヤだと思います。でも、本当に一瞬の事故で、大好きだったたくさんのことができなくなってしまうんです。好きなことや、今までできていたことができなくなるのはもっとイヤだ、ということを真剣に考えて、ぜひ、ヘルメットを着用するようにしてほしいのです」(山本せつみさん)
中学1年生を襲った「21年前の七夕」の悲劇
山本一真さんが事故に遭ったのは2002年7月7日、日曜の朝のことでした。当時は中学1年生。自転車で少年野球の練習に向かう途中でした。
「あの朝、一真は白い野球のユニフォームを着て自転車にまたがり、元気にペダルをこいで出かけていきました。私は、中学生になって一層たくましくなったその背中が、遠くなるまで見送りました。一真も何度か振り返っていました。まさか数十分後、その白いユニフォームが、真っ赤な血に染まるなど、想像もせずに……」
検査を受ける山本一真さん。今も左半身麻痺・高次脳機能障害の後遺症に苦しんでいる。
一真さんが事故に遭ったという知らせが入ったのは、それから間もなくのことでした。交差点の横断歩道を自転車で横断していた一真さんが、法定速度を超えて走行してきたワゴン車にはねられたというのです。
せつみさんは夫と共に、すぐに病院へ駆けつけました。
事故によって頭部を強打した一真さんは意識不明で、医師からは大変危険な状態であると告げられました。病院からサインするよう求められた「入院診療計画書」には、以下のような傷病名が列挙されていました。
【病名】 多発性脳挫傷、び漫性軸索損傷、全身打撲
【傷病部位】 脳、右手、全身打撲、脊髄損傷の疑い
【症状】 昏睡こんすい状態、両側除脳硬直、過呼吸、過高熱
【入院中の注意事項】 急変して死亡する可能性もあります
プロ野球選手になる夢を一瞬で奪われた
せつみさんは、この書面を見たときのショックをこう振り返ります。
「『入院診療計画書』に書かれた文字を追いながら、私は最後の一行に衝撃を受け、頭が真っ白になりました。そして、身体が硬直しました。一真はジャイアンツの清原選手に憧れ、小学4年生からずっとプロ野球選手になるのを夢見て、毎日野球の練習に励んでいたんです。そんな頑張り屋で、元気な一真が、『死亡する可能性もある』なんて、その現実を受け入れることができませんでした……」
【病名】の欄に書かれていた「脳挫傷」とは、頭部を強く打ち、脳が損傷を受けた状態のことです。一真さんの場合はそれが複数の箇所で起こり、出血も見られましたが、どうしても手術のできない箇所だったといいます。
少年野球チームに所属していた。夢は野球選手だったが、事故で諦めざるを得なくなった。
もうひとつの「び漫性軸索損傷」とは、頭部に強い回転加速度がかかることによって「軸索」と呼ばれる脳の神経細胞の線維が広範囲にわたって伸びたり切れたりすることです(「び漫性」という言葉は、その症状が1カ所だけでなく広範囲に広がっていて患部が限定できない状況を意味します)。
脳挫傷やび漫性軸索損傷は、交通事故で頭部に強いダメージを負った被害者に多く見られる大変深刻な傷病名で、最悪の場合、死に至ることもあります。また、命が助かっても、遷延性意識障害(いわゆる植物状態)や重度の意識障害、高次脳機能障害、身体に麻痺が残ることも少なくありません。
入院中に巨人・清原和博選手(当時)からユニフォームをプレゼントされたこともある。
息子の車椅子を押し続ける母・せつみさんの訴え
その後、一真さんは昏睡状態が続き、約1カ月半後、なんとか意識が回復したものの、高次脳機能障害による失語症や記憶障害が残りました。
そして、左半身は麻痺し、利き腕の左腕は「く」の字に曲がったまま拘縮。左足も自分の意思では動かすことができなくなり、プロ野球選手になるという夢もあきらめざるを得なくなりました。
それでもせつみさんは、一真さんの回復をけっしてあきらめず、辛く痛いリハビリに寄り添い続けてきたのです。
あの日から21年、33歳になった一真さんは、現在も母親のせつみさんの介護を受けながら暮らしています。
事故による脳挫傷の影響は今も残り、ときおり意識を失うほどの激しいけいれんを起こすこともあるそうです。そのため、一真さんは一昨年、大学病院で検査を受けて再入院し、脳の手術を受けました。それでも発作はいつ起きるかわからないため、不安な日々はずっと続いているといいます。
もし、あの日、ヘルメットをかぶっていれば……、せつみさんは悔しさをにじませながら語ります。
「私の子どもが事故に遭ったときは、自転車にヘルメットの着用義務はなく、一真もヘルメットはかぶっていませんでした。そして結果的に一瞬の事故によって脳に大きなダメージを受け、大好きだった野球だけでなく、これまでできていたことがたくさんできなくなってしまいました。もちろん、当時はほとんどの人がヘルメットをかぶっていませんでしたが、こうした現実を思うと、やはり、努力義務とはいえ、ヘルメットはつけなければいけないと思います」
ヘルメットなしで、致死率は2.6倍になる
出所=警察庁交通局「令和5年春の全国交通安全運動の実施について」
昨年までの5年間で自転車事故による死者数は2005人、負傷者は36万3751人に上ります。死者数のうち、1116人(55.7%)は頭部を損傷。さらにそのうち1071人(96%)がヘルメットをかぶっていませんでした。警察庁は、ヘルメットを着用しないことで、致死率(死傷者のうち死者の占める割合)が2.6倍になると指摘しています。
出所=警察庁交通局「令和5年春の全国交通安全運動の実施について」
どんな場面で自転車の死亡事故が起きるのでしょうか。警察庁のまとめによると、昨年までの5年間で最も多かったのが、出会い頭の衝突事故です。762人(38.4%)が死亡しています。
ちなみに、自転車同士の衝突事故や単独の転倒であっても、想像以上の衝撃が身体にかかります。を見てみましょう。この実験は、母子3人が乗る自転車と男性が乗る自転車が出会い頭衝突した際の頭部損傷基準値(HIC)をヘルメットの有無で比較したものです。自転車の速度は時速20キロです。
「最も重要な頭部を守るための唯一の安全装備である」
結果は、後席子供ダミーの「ヘルメットなし」のHICが1万5000を超え、「ヘルメットあり」と比べて約17倍もの高い数値になりました。HICが700~2500で死亡する恐れがあるとされる水準です。
単独の転倒事故を想定した実証実験では、「ヘルメットなし」は「あり」の場合に比べ3倍の衝撃が頭部に加わりました。HICは900近くとなり、こちらも死亡する恐れのある水準に達しました。
車やバイクと違って速度が低いため、軽傷で済むと思っている人は大勢いると思いますが、自転車は気軽に乗れる分、リスクが高い乗り物だと言えます。
JAFのページにはこう書かれています。
「ヘルメットは万能ではないが、最も重要な頭部を守るための唯一の安全装備である」
この指摘は非常に説得力があります。生身での走行自体が、非常にリスクの高い行為であることを改めて認識する必要があります。
髪形を守るか、命を守るか
運転免許がなくても乗れる手軽な「自転車」は、通勤、通学、買い物の足として、また子どもたちの遊具として、私たちの生活の一部となっています。しかし、「道路交通法」においては「軽車両」と位置づけられているれっきとした「車両」です。努力義務といえども、ハンドルを握る以上、法律を守る必要があります。
7月1日からは、電動キックボードの交通ルール変更を盛り込んだ改正道交法が施行されます。最高速度が時速20キロ以下の車両が新たに「特定小型原動機付自転車」に分類され、運転可能な年齢を16歳以上とし、運転免許は不要で自転車と同様の交通ルールが適用されます。こちらもヘルメットは「努力義務」ですが、車輪の小さな電動キックボードは、自転車より不安定な乗り物です。転倒するだけでも危険であることを認識してほしいと思います。
車両であるにもかかわらず、自転車は、脆い生身の体を常に危険にさらしていることを忘れてはいけません。一度の、一瞬の事故が、その後の人生を大きく変えてしまうことになる――。自転車に乗るとき、山本せつみさん・一真さん親子の言葉を思い出してほしいと思います。
それでも髪形を守るために、大切な頭部を危険にさらしますか?
恥ずかしいから、今日もヘルメットなしで自転車に乗りますか?
クルマの無謀運転から身を守るにはこれしかない
自転車用ヘルメットの購入については、2000~3000円程度の補助金を出している自治体が多数あります。今、全国各地でさまざまな取り組みが積極的に導入されています。居住している地方自治体ごとに、補助金額や開始時期、対象年齢などの各種条件が異なっているので、これから購入を検討している人は、ぜひ一度、お住まいの地域の自治体ホームページをチェックし、役所に問い合わせてみてください。
自転車の死傷事故は、車の一方的な無謀運転によって引き起こされているものも多く、たとえ自転車側がヘルメットをかぶっていても命を守り切れないケースが多いのは事実です。しかし、ヘルメットによって確実に守られる命、そして未来があるのもまた事実です。
一瞬の交通事故が、本人とその家族の人生を大きく変えてしまいます。事故の経験者の声に耳を傾け、自分や家族の命と将来を守るためにも、ぜひヘルメットの着用を心がけたいものです。