19年前の交通事故で意識不明に… 愛娘の在宅介護続ける両親の挑戦【親なき後を生きる】
2021.11.4(木)
■19歳の春、突然の事故で脳挫傷の重体に
「はじめまして。こんにちは」
そう呼びかけると、ベッドの上の彼女は、満面の笑みを浮かべました。
言葉はありません。でも、優しい目を向け、にっこりと私を見つめてくれます。
京都市北区に住む奥村知子さん(39)は2002年、19歳のとき交通事故に遭い、遷延性(せんえんせい)意識障害、いわゆる「植物状態」と呼ばれる最重度の後遺障害を負いました。
事故が起こったのは4月の夜のことでした。自宅近くのコンビニエンスストアで買い物をした知子さんは、片側2車線の道路を横断しようとしたとき、左側から来た乗用車にはねられたのです。
知らせを受け、救急病院に駆け付けた両親に、医師はこう告げたそうです。
『お嬢さんの脳は、豆腐をぐちゃぐちゃにした状態です……』
19年前、娘の知子さんが車にはねられた現場を見つめる父親の忠一さん(筆者撮影)
■1か月後「手の施しようがない」と集中治療室から出され…
父親の奥村忠一さん(70)は振り返ります。
「集中治療室に運ばれた娘は、なんとか命を取り留めました。懸命に声をかけ続けました。でも、医療的には手の施しようがないと言われ、約1か月後、意識不明のまま集中治療室から出されたのです」
奥村さん夫妻は、この先、どうしてよいのかわからず、途方にくれました。
「私たちは現実を受け入れられず、娘をなんとか回復させることはできないかと、脳外傷の治療を行っている病院を必死で探し、関西のみならず、東京まで出向きました。北海道の病院にも入院できないか電話で問い合わせました。あの頃は本当に辛かったですね……」
それでも、受け入れ病院はなかなか見つかりません。
奥村さん夫妻は決断しました。いつの日か知子さんが、「お父さん」「お母さん」そう呼んでくれる日が来るのを信じ、自宅マンションにベッドを置いて、家族で介護をしていくことに決めたのです。
退院後、音楽運動療法などさまざまなリハビリを取り入れながら長い時間を積み重ねてきた。訪問ヘルパーの連携と協力によって在宅介護が続けられている(筆者撮影)
■訪問ヘルパーの協力を受け24時間体制での在宅介護
間もなく、事故から20年……。
39歳になった知子さんは、今も自宅マンションのリビングルームで家族とともに暮らしています。
週に3回、9時から15時までデイサービスに出かけますが、それ以外の日は、10の事業所による訪問ヘルパーの連携によって、以下のような24時間体制での切れ目のない在宅介護が行われています。
<知子さんのある日の介護スケジュールと訪問ヘルパーの数>
8:00~15:30 2名
15:30~17:00 2名
17:00~18:00 1名
18:00~20:30 2名
20:30~23:00 なし
23:00~ 8:00 1名
母親の浩子さん(77)は語ります。
「基本的に、見守りのときはヘルパーさん1名、食事や着替え、移動、入浴などを行う時間帯は2名でお願いしています。24時間体制となると、夜の泊りの支援をクリアしなければならないのですが、昨年からは、夜の泊りの支援を毎日お願いできるようになり、24時間体制での訪問支援もその日数を徐々に増やしています」
車椅子の乗り降りにはリフトを使用。ただ、マンションの構造上、天井にリフトを取り付けることができないため、ベッドに取り付けるタイプのものを使用している(筆者撮影)
■介護担う母が突然の入院、手術
しかし、24時間体制を取るようになったのはごく最近のことで、昨年の2月に浩子さんが体調を崩すまでは、夜の介護は浩子さんがほぼ一人で担っていたといいます。
「夜は娘のベッドの横に折り畳みのベッドを置いて、そこで見守り、私が痰の吸引などをしていました。回数はその日によって違いますが、娘が風邪をひいたり、花粉症になったりしたときなどは、15分おきにひっきりなしの吸引が必要な場合があるのです。夜の訪問支援をお願いするようになってからは、初めて別室で睡眠をとることができるようになりましたね」(浩子さん)
実は9年前に、一度大きな危機が訪れました。浩子さんが脊柱管狭窄症の手術を受け、20日間入院することになったのです。
「あのときは、私が入院する病院に娘も一緒に入院させたかったのですが、それは難しいと言われて断念し、娘が肺炎などになったときお世話になっている病院に預かっていただきました。痰吸引などが必要なため、全く知らない看護師さんだと不安だったので、娘が普段からお世話になっている訪問ヘルパーさんに病院の方へ行ってもらえるよう、ローテーションを組みました。事故後、これほど長い期間娘と離れるのは初めてでしたが、ときどき私の携帯に写真などを送ってもらえたので安心できました」
奥村さん夫妻はこの出来事をきっかけに、
『ヘルパーさんにつないでもらったら、家でずっと生活するという、漠然と思い描いていた夢が実現するかもしれない』
と思うようになったといいます。
シートが車椅子になる福祉改造車、新幹線、飛行機などを使って、家族旅行にもよく出かけた。オーストラリア・ケアンズへの海外旅行に挑戦したことも。写真は飛騨高山で忠一さんと(奥村さん提供)
■80歳を目前にした母が決断した、娘の「一人暮らし」
交通事故で、突然、遷延性意識障害となった我が子を介護する親たち。それぞれの家族への取材を続ける中で、例外なく耳にするのは「親なき後」への不安です。
自分たちが病気になったり、ケガをしたり、高齢になったとき、要介護状態の我が子をいったい誰が介護するのか……、という問題です。
これまでインタビューさせていただいた介護者の多くは、「できればこのまま環境を変えず、自宅で一生過ごしてほしい」という希望を抱いておられました。
しかし、個人宅でそれを実践しているケースには、私はまだ出会っていません。
そんな中、奥村さん夫妻は今、その計画を着々と進めつつあるといいます。
「娘は今年39歳になり、私も喜寿(77歳)を迎えました。支援センターや福祉事務所とも話をし、母親である私が80歳になるまでには、『この家で知子さんが一人でも暮らしていけるよう、期限を決めて計画を立てていきましょうね』と提案いただいているところです。京都は福祉サービスの拠点数が多く、そういう意味では本当に助かっていますが、『娘をこの家で一人暮らしさせたい』という親としての希望をしっかり伝えていたからこそ、相談員の方々も前向きになってくださったのだと思います」
とはいえ、知子さんの一人暮らしが実現したからといって、奥村さん夫妻が遠く離れて暮らすわけではありません。
実は、お互いが元気なうちはすぐに知子さんの元へ駆け付けられるよう、マンションの隣の部屋を購入し、そちらに居を構える予定を立てています。
■父より…「ともちゃん」へのエールを1曲の歌に込めて
「不思議なことがあるものですね。それまで音楽とはまったく無縁だった私ですが、娘の事故から15年が過ぎたころから、なぜか突然、音楽に目覚め、作詞・作曲ができるようになったんです。2年前には、京都・洛北青年合唱団にも入り、活動しています」
そんなメッセージを添えて、父親の忠一さんから1枚のCD(13曲収録、歌唱:元「五つの赤い風船」長野 たかし夫妻)が送られてきました。
『あの夏の日に』というタイトルが記されたジャケットには、真夏の白い雲をバックに、元気よく自転車をこぐ少女のイラストが描かれています。
父親の忠一さんの作詞・作曲による作品が収録されたCDには、知子さんへのエールも込められている(筆者撮影)
収録されている「スマイル」という曲の3番に、次の詞を見つけました。
ともちゃん!
みんながあなたに呼びかける
ベッドサイドで呼びかける
がんばりなさいと手を握り
腕をさすって呼びかける
だから、こんな時こそ スマイル スマイル
いつもの笑顔だ スマイル スマイル
病に打ち克つ スマイル スマイル
早く元気を取り戻そう
忠一さんはこの詞を、肺炎で入院中の知子さんのベッドサイドで思いついたといいます。
「娘は過去に何度も肺炎で入院しているのですが、回復までにはいつも約3週間かかります。回復の兆しがみえてくるのは、こちらの呼びかけに笑顔を見せる余裕が出て来たときです。それは、私には到底真似をすることができない、とっても素敵な笑顔です。その笑顔を見ると、逆にこちらが癒され、励まされます。娘はもともと笑うことが好きでしたので、これからも持ち前のその笑顔でがんばってほしいとの思いを込めてつくりました」
歌詞カードには、「作詞者のメッセージ」として、こんな言葉が添えられていました。
『誰しも苦しい状況に置かれるときがあります。そんな時こそ「スマイル」…』
知子さんの明るい笑顔は、今もあの頃のままだそうです。
元気なころの知子さん。お菓子作りが好きで、家族にもよく作ってくれたという。パティシエを目指し、専門学校に通い始めた直後の事故だった(奥村さん提供)
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