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桜咲き誇る中、息子は22歳で散った… 20回目の命日、事故防止に馳せる父の思い

2021/4/7(水)

Yahooニュース

桜咲き誇る中、息子は22歳で散った… 20回目の命日、事故防止に馳せる父の思い

 「2001年4月7日、あの日から『遺族』と呼ばれるようになった私たち夫婦は、それまでとは全く別の人生を突き付けられ、今日まで生きてきました。20年経って、平常心はなんとか保てるようになりましたが、心の中ではいつも泣いています」

 栃木市に住む楠野祇晴さん(73)から、私のもとにそんな電話がかかってきたのは、次男・敦司さん(当時22)の命日が2日後に迫った、4月5日朝のことでした。

 楠野さんと知り合ったのは、今から20年前にさかのぼります。
 事故からまだ日の浅い時期、楠野さん夫妻は我が子の血が大量に付いた着衣やヘルメットを持参し、千葉で開催された「バイク事故研究会」に足を運ばれました。そして、専門家の方々に真剣に意見を求めておられました。

 その姿が、今も印象に残っています。

2001年、事故から約半年後に開催された「バイク事故研究会」に、敦司さんのヘルメットや衣類を持参し、交通事故鑑定の専門家に相談する楠野さん夫妻(筆者撮影)

2001年、事故から約半年後に開催された「バイク事故研究会」に、敦司さんのヘルメットや衣類を持参し、交通事故鑑定の専門家に相談する楠野さん夫妻(筆者撮影)

 その後、長い時間がかかりましたが、刑事裁判も民事裁判もすべてが終わり、当時50代前半だった夫妻は歳を重ね、70代になられました。
 現場の交差点にも大きな建物が建ち並び、当時の面影はほとんどありません。

 そんな今、周りから見れば、20年前の事故はすでに過去の出来事なのかもしれません。
 しかし、ある日突然、何の前触れもなく家族を奪われた人々は、何年経っても同じ季節が巡ってくるたびに、時間が逆戻りすると話されるのです。

 楠野さんは語ります。

「今年は桜の開花が早く、4月にはすっかり花が散ってしまいました。でも、20年前の4月7日は、見事なほどに咲き誇っていたんです。敦司はあの日、仕事を終えてから婚約者の彼女や友人たちと花見をする予定でした。つい先日、自宅で満開の桜を眺めながら、ふとそんなことを思い出したら、自然に泣けてきて、涙がこらえきれませんでした……」

 今日、4月7日は敦司さんの20回目の命日です。楠野さんはこの日をひとつの節目として、「今も起こり続けている右直事故をはじめ、悲惨な交通事故をなんとか抑止するため、少しでも啓蒙になれば……」
 そんな思いを込め、事故を振り返り語ってくださいました。

事故直後の現場。敦司さんの身体には毛布が掛けられていた(楠野さん提供)

事故直後の現場。敦司さんの身体には毛布が掛けられていた(楠野さん提供)

■あの朝、カーキ色の毛布を掛けられていた息子

 事故発生は2001年4月7日、午前8時20分頃。通勤途中だった楠野さんが奥さんから事故の知らせを受けたのは、偶然にも現場の近くを車で走っているときでした。

「電話を受けてから1分くらいで現場の交差点に到着したのですが、その光景に、言葉を失いました。目に飛び込んできたのは、バラバラに飛び散って炎上したバイクと、路上に掛けられたカーキ色の毛布……。私は一目見て、それが敦司であることがわかりました」

事故直後の現場。敦司さんのバイクは原形をとどめないほど大破している(楠野さん提供)

事故直後の現場。敦司さんのバイクは原形をとどめないほど大破している(楠野さん提供)

 楠野さんはすぐに車を停め、無我夢中で現場に駆け寄りました。

「その後の記憶は、定かではありません。ただ、敦司は、救急車で病院に搬送されることなく、警察の実況見分が終わるまで、現場の路上に放置されたままでした。それだけは記憶しています」

事故直後の現場。敦司さんのバイクは原形をとどめないほど大破している(楠野さん提供)

事故直後の現場。敦司さんのバイクは原形をとどめないほど大破している(楠野さん提供)

現場は見通しの良い片側2車線の直線道路だった(楠野さん提供)

現場は見通しの良い片側2車線の直線道路だった(楠野さん提供)

 現場は、通称「栃木バイパス」と呼ばれる片側2車線の幹線道路です。
 敦司さんはこの朝、職場に向かうため、大型バイク(ヤマハYZF-R1)に乗って第一車線上を直進していました。そして、T字交差点を青信号で通過しようとしたとき、突然、対向車線から右折してきた産業廃棄物処理用の10トントラックに道を塞がれたのです。

 敦司さんとバイクは、トラックの左後輪部分に衝突し、前輪部分とフレームが切断され、燃料タンクがトラックの後輪に踏み潰されて爆発炎上。
 敦司さんは、左腕切断、左足開放骨折を負うなどして路上に投げ出され、ほぼ即死の状態でした。

加害者が運転していた10トントラック(楠野さん提供)

加害者が運転していた10トントラック(楠野さん提供)

■加害者は言った。「年寄りか、若い奴か、見てきてくれないか……」

 事故の直後、運転手の男(当時58)は、右折した先の脇道にトラックを止めたまま、しばらく運転席から降りてきませんでした。

 現場に面した会社の入り口付近で大きな衝突音を聞き、真っ先に現場へ駆けつけたという女性社長は、路上に投げ出されていた被害者が一瞬動いたのを見て、救急車を呼ぶよう社員に指示を出しました。そしてすぐに加害車両を探したところ、それらしきトラックがずいぶん先に止まっているのが見えました。
『このまま逃げてしまうのではないか!』
 と心配して駆け付けると、運転席の男は、開口一番、

「いける(曲がりきれる)と思ったんだ。よく見ればよかった、バイクが来ているんだから自分が止まればよかった。遠くにいるからいけると思った」

 そして、その言葉に続けてこう言ったそうです。

「年寄りか、若い奴か、見てきてくれないか……」

 その後、運転席から降りてきた加害者は、トラックを置いて逃げ出すようなそぶりを見せたため、女性は男のズボンのベルトを掴んで逃げられないようにし、警察の到着を待ったのです。

 加害者は、後に刑事裁判の法廷で、事故後、すぐにトラックから降りて被害者の救護をしなかった理由についてこう答えました。

「降りたくても、恐ろしくなって……、体が震えて降りられませんでした」

バイクのタンクはトラックに踏み潰され、爆発炎上。現場にはガソリンが焼け焦げたような臭いが漂っていたという(楠野さん提供)

バイクのタンクはトラックに踏み潰され、爆発炎上。現場にはガソリンが焼け焦げたような臭いが漂っていたという(楠野さん提供)

■対向車が通過するまで待っていれば確実に避けられた「右直事故」

 まさに、典型的な「右直事故」でした。
 敦司さんのバイクは、エンジンをかけると自動的にヘッドライトが点灯します。加害者は前方から近づくその光に気づかなかったのでしょうか。

 後の警察の調べによると、トラックは停止することなく、時速約30キロで強引に右折したそうです。対向してくるバイクが通過するまで、ほんの少し待ってさえいれば、こうした事故は絶対に起こらなかったはずです。

 楠野さんは、悔しそうに語ります。

「加害者は、前方から直進してくる敦司のバイクが見えていたにもかかわらず、交差点内の白線上で一時停止をするどころか、先に曲がってしまおうと加速して、交差点内に進入したのです。突然、前方を塞がれた敦司は、トラックの左側面ボディについている2本の大きな後輪に挟まれ、タイヤとタイヤハウスの間であたかもミキサーにかき回されるかのごとく致命的な損傷を受けました。そして、22歳8か月と19日の生涯を強制的に終わらせられたのです」

敦司さんの身体を巻き込んだ、加害トラックの左後輪(楠野さん提供)

敦司さんの身体を巻き込んだ、加害トラックの左後輪(楠野さん提供)

 敦司さんには将来を約束した婚約者がいました。楠野さん夫婦もとても親しくしており、結婚後は共に住む計画を立てていたと言います。
 しかし、家族で描いていた将来の夢や計画は一瞬で奪われてしまったのです。

敦司さんのバイクのイグニッションキーは、衝突の衝撃で完全に折れていた(楠野さん提供)

敦司さんのバイクのイグニッションキーは、衝突の衝撃で完全に折れていた(楠野さん提供)

■「死人に口なし」バイクの速度オーバーを主張してきた加害者

 加害者は業務上過失致死容疑(当時)で逮捕されましたが、間もなく処分保留で保釈。警察の取り調べに対しては、「バイクの速度が100キロ以上出ていた」と、さもバイクの速度違反が事故の原因であるかのような供述をしていたそうです。

「このままでは、息子の側のスピード出し過ぎで処理されてしまう。あんないい加減な判断で右折をした加害者が、不起訴になってしまうかもしれない……」

 焦りを感じた楠野さんは、敦司さんの婚約者にも背中を押され、独自に証拠を集め、加害者供述の矛盾点を突いていく覚悟を決めました。

遺族が事故の状況を説明するために作った模型(楠野さん提供)

遺族が事故の状況を説明するために作った模型(楠野さん提供)

 もちろん、事故車のバイクも廃車にはせず保管していました。
 楠野さんは、多くの人たちの協力を得ながら独自の現場検証を繰り返し、上申書や事故の分析結果、鑑定書、独自に作成した資料、ビデオテープなど、数々の証拠を検察庁に提出し続けたのです。

 その結果、検察官は事故現場に出向き、再現場検証を実施。加害者の供述が事実ではないことを確信し、事故から1年3か月後、業務上過失致死で在宅起訴したのです。

事故直後の敦司さんのバイク。タンクが踏み潰され、前部と後部が分断されている(楠野さん提供)

事故直後の敦司さんのバイク。タンクが踏み潰され、前部と後部が分断されている(楠野さん提供)

 そして、刑事裁判では裁判官による事故車の検証が行われるなど、異例の展開となり、結果的にバイクは、加害者の言うような高速度は出ていなかったことが立証されたのです。

■この事故の前に2度の人身事故。酒気帯びでも刑罰を受けていた加害者

 この裁判を傍聴していた私は、法廷のやりとりで次々と明らかになる事実に愕然としました。

 実は、加害者は過去に2回、大きな人身事故を起こしており、この事故の6年前には4台の絡む玉突き追突で4人の負傷者を出していたのです。
 また、玉突き事故の前年には「酒気帯び運転」、その前年には「過積載」で罰金刑を受けていたこともわかりました。
 しかし、その後も職業ドライバーとして10トントラックを運転し続け、結果的に再び大事故を起こし、今度は一人の青年の命を奪ったのです。

 それでも、今回、加害者に下された判決は、禁固10月執行猶予4年というものでした。

 重大事故を繰り返す運転者の裁判を取材するたびに、このままでよいのかと複雑な気持ちになるのです。

生前の敦司さん。正義感が強く優しい性格だったという(楠野さん提供)

生前の敦司さん。正義感が強く優しい性格だったという(楠野さん提供)

■事故撲滅を呼びかける父の手記が「安全運転教本」に掲載

 先月末、敦司さんの20回目の命日を前に、楠野さんから封書とお手紙が届きました。そこには、2冊の小冊子が同封されていました。

 1冊は、『安全運転を確かなものにするために』というタイトルの2021年版の運転教本、もう1冊は、犯罪被害者遺族の自助グループによるメッセージ集『証―AKASHI-』(被害者支援センターとちぎ)です。

 運転教本は、栃木県、群馬県、静岡県の運転免許センターで、運転免許更新ドライバーに手渡されるもので、すでに100万部の配布が決まっているそうです。

楠野さんから送られてきた2021年版の二つの冊子(筆者撮影)

楠野さんから送られてきた2021年版の二つの冊子(筆者撮影)

 運転教本の表紙をめくると、その裏側に「交通事故被害者遺族の手記」として、楠野さんの文章が掲載されていました。
 そこには、事故から20年を迎えた遺族の気持ちがこう綴られています。

 敦司が生きていたならば42歳をむかえます。結婚し子供にも恵まれ人並な家庭を持てていたはずです。そして本来なら孫に囲まれ賑やかな老後になっていたはずでした。

 人生を狂わされた敦司の痛恨の無念さをお分かりいただきたいのです。たった一人の加害者により、遺された両親の人生までも狂わされ、悔しくてなりません。

(中略)

 運転するすべてのドライバーがしっかりと認識して被害者にも加害者にもならず、我が家のような変貌してしまった家族の悲しみが延々と続く事のない社会を望みたいのです。

 それには「だろう運転」ではなく「かもしれない」運転を心がけていただければと思うのです。

 楠野さんは語ります。

「交通安全に関する講話やこうした手記を広めていただくことで、20年経っても敦司の命が生かされている……、そう思うことで、私たちも少しは生きる意味を見出せます。最近は当時にはなかったドライブレコーダーも普及してきました。車はもちろん、バイクにもぜひ装着して、事故後に起こる大変なことからも身を守っていただきたいと思いますね」

 4月6日から『春の全国交通安全運動』が始まりました。
 20年前、楠野敦司さんが一瞬にして命を奪われたこの事故を、今一度振り返りながら、楠野さんがおっしゃる、「だろう運転」ではなく「かもしれない」運転を、ぜひ心がけていきたいと思います。

敦司さんが最期まで被っていたヘルメット(楠野さん提供)

敦司さんが最期まで被っていたヘルメット(楠野さん提供)