息子が事故で脳障害と半身麻痺 19年間、寄り添い続ける母の願い【親なき後を生きる】
1/22(金)
「ミカさん、私は、神や仏なんて信じない。信じられるものがあるなら、それは、カズくんの笑顔と、その笑顔の向こうに見える明るい未来。でもね、それでも、ときに挫けそうになるの……」
兵庫県姫路市に住む山本せつみさん(55)から、LINEでときおりこんなメッセージが届きます。
人一倍パワフルな彼女が、少し沈み気味なのが気になって連絡してみると、やはり、長男の一真(かずま)さん(31)に関する心配事が起こっていました。
「実は最近、カズくんが意識を失う激しいけいれんを3回も起こして、救急車で運ばれたんです。すぐに退院はできたんだけど、カズくんが黙り込むとまた発作が起きるんじゃないかと、そのつどドキドキして、毎日不安で……」
せつみさんが心配した通り、けいれん発作はこの後も何度か起こり、一真さんはその後、大学病院に検査入院。今月末、再度入院をして、脳の手術を受けることになりました。
せつみさんは語ります。
「発作の原因は、19年前の交通事故で負った脳外傷です。こんなに長い時間が経つというのに、カズくんの苦しみは、あの日からずっと続いているんですよね」
激しいけいれん発作が続くため、昨年、大学病院で脳の精密検査を受けた一真さん(山本さん提供)
■野球選手夢見る少年を襲った、突然の交通事故
事故は、2002年7月7日、七夕の日の朝に起こりました。
この日は日曜日で、中学1年生の一真さんは、いつものように自転車で少年野球に向かいました。
「一真は元気にペダルをこいでいきました。白い野球帽に上下白の練習着。背中には『山本』と書いた名前が縫い付けられています。私は、中学生になって一層たくましくなったその背中が、次第に遠くなるのを見送りました。一真も何度か振り返ってくれました。まさか数十分後、その真っ白な練習着が、真っ赤な血に染まるなど、誰が想像したでしょうか……」
事故に遭う直前の一真さん。雨が降っても、風が吹いても、毎日自主練に取り組んでいたという(山本さん提供)
それからしばらくして、自宅の電話が鳴りました。一真さんが事故に遭ったという知らせでした。
交差点の横断歩道を自転車で横断していた一真さんが、法定速度を超えて走行してきたワゴン車にはねられたというのです。
せつみさんは夫と共に、すぐに病院へ駆けつけました。
医師の説明によると、脳挫傷で脳内に出血しているが、手術できない部位にあるため、非常に危険な状態とのこと。
両親にサインするよう求めた『入院診療計画書』には、以下のような傷病名が列挙されていました。
【病名】 多発性脳挫傷、び慢性軸索損傷、全身打撲
【傷病部位】 脳、右手、全身打撲、脊髄損傷の疑い
【症状】 昏睡状態、両側除脳硬直、過呼吸、過高熱
【入院中の注意事項】 急変して死亡する可能性もあります
「その文字を追いながら、私は最後の一行に大きな衝撃を受け、頭が真っ白になり、身体が硬直してしまいました。巨人の清原和博選手に憧れ、小学4年生からプロ野球選手になるのを夢見て、毎日野球の練習を頑張っていた一真。そんな夢いっぱいの楽しい日々が、この先もずっと続くと思っていたのに……」
意識不明の状態が約1か月半続いたとき、母親のせつみさんがふと思いつき、清原選手に手紙を書いて送ったことがありました。
すると、その3日後、清原選手本人から、背番号5のユニフォームとともに、「帰ってこい、一真」と力強い文字が書かれたキャップが届いたのです。
せつみさんは、清原選手のやさしさに感謝しながら、そのパワーが届くようにと、大きなユニフォームを一真さんの身体にずっとかけていたと言います。
意識が戻った頃の一真さん。入院中には清原選手から贈られた背番号5のユニホームがかけられていた(18年前に刊行された『キヨのユニホーム』(光文社)より)
「今振り返れば、面識もない清原選手にいきなり手紙を書くなんて、よくやったなあという気がしますが、当時はそんなことを考える心のゆとりすらありませんでした。とにかく、必死に、藁をもすがる思いでペンを走らせたことだけは覚えています」
奇跡的に命を取り留めた一真さんは、その後、少しずつ意識を回復していきました。
事故から3カ月が過ぎた10月15日、はじめてはっきりと出た言葉は、「キヨの、ユニフォームや!」だったそうです。
それは、死亡する可能性があると宣告されていた一真さんが、まさに、言葉を取り戻した瞬間でした。
せつみさんはこう言います。
「人は運命の中で生きている、私はそう思っています。いいことも、悪いことも、運命は変えることができないけれど、生き方は自分で作れるはずです。そして、親は子供の力、生命力を信じています。私は赤ちゃんに戻ってしまった息子を、もう一度全力で育てなおし、応援するために、自信を持って生きていこうと決めたのです」
2012年、筆者宅を訪れたときのドライブ先で。せつみさんと一真さん(筆者撮影)
■重い後遺障害と苦しいリハビリの日々を超えて
意識は回復したものの、一真さんの身体には高次脳機能障害による失語症や記憶障害のほか、左半身に重い後遺障害が残りました。
利き腕の左腕が、「く」の字に曲がったまま胸の上で固まる「拘禁」という症状が消えず、左足も自分の意思では動かせません。排泄も介助が必要でした。
プロ野球選手になる夢も、あきらめざるを得ませんでした。
それでもせつみさんは、一真くんにつきっきりで寄り添い、毎日おこなわれる辛く痛いリハビリに一緒に向き合い、そして介護を続けてきたのです。
清原選手に歩行のリハビリ訓練を手伝ってもらう一真さん。彼にとって、大好きな「キヨ」は、心の支えだった(『キヨのユニホーム』より)
今年、事故から19年が経ち、当時12歳だった一真さんは31歳になりました。
自分より大きな身体に成長した一真さんの車いすを押して、せつみさんはたびたび野球観戦のため、東京ドームを訪れます。
東京に来ると、二人はときどき筆者の自宅にも足を延ばしてくれるのですが、一真さんはそんなときも、私の作った料理を「美味しいなあ」と何度も言いながらにこやかに食べてくれる、穏やかで優しい青年です。
でも、せつみさんが東京に出てくる本当の理由は、実は、姫路から離れたいときがあるからだといいます。地元で、立派に成長していく一眞くんの友人たち、その眩しい姿を見るのがつらいのだと……。
親子が歩んできたこれまでの歳月を簡単な言葉で表すことなどできません。しかし、せつみさんが目の前の現実に目を背けることなく、前を向けるようになったのは、同じ立場にある人たちとのあったからだといいます。
「実際に、もっと大変な介護をされているお父さん、お母さんもいらっしゃいます。でも、皆さんとても明るいんです。同じ体験をされた方々との繋がりが、何度も崩れそうな心を救ってくれました。一人じゃないんだと思えることで、我が子の未来に目を向けることでき、自分もまた、本来の自分を大切にできる時間を持って前を向いていられるのだと感じています」
事故から19年、常に車いすを押し、一真さんを支え、介助を続けてきた母・せつみさん(筆者撮影)
■息子が笑顔で暮らせるグループホームの設立を夢見て
今、せつみさんは、「親亡き後」のことを真剣に考え始めています。
現在は自分が一真さんの介護をしていますが、高齢化すれば、いつかそれができなくなるときがくるのです。
「交通事故によって、突然、障害者の親になって思うことは、我が子が将来にわたって笑顔で暮らせる環境を整えてやることが、一番大切だということです。私は今、一真が安全かつ安心して暮らせるよう、たくさんの方の力を借りながら、グループホームの設立に向けて一歩一歩動いています。障害はあっても、お互いに助け合い、支え合い、家族のような温かいホームになるよう、頑張っていこうと思っています」
交通事故による死者数は減少傾向にあります。しかし、一方で、命を取り留めながらも、重度後遺障害を負って一生を過ごす若年層の被害者が数多く生まれているのも事実です。
日本の介護保険は、基本的に介護を必要とする65歳以上の高齢者と特定の疾病を持つ40歳以上の人が対象で、交通事故で障害を負った子供や若者を受け入れる環境が十分に整備されていません。
そんな中、親たちからは、介護者の高齢化によって介護が困難となった後の対応に対する不安の声が寄せられているといいます。
それを受けた国土交通省は、「介護者なき後」を見据え、交通事故による重度障害者のための、障害者支援施設やグループホームを支援する補助制度を、2018年度から実施しています(以下のサイト参照)。
「在宅生活支援環境整備事業(自動車事故対策費補助金)」の公募による補助対象事業者を決定しました!~介護者なき後を見すえた日常生活支援の拡充~
私のもとにも、「介護者なき後」「親なき後」の問題に思い悩む、全国各地の交通事故被害者家族から、数多くのメールや手紙が届いています。
引き続き、一件一件、お話を伺いながら、重度障害者として人生を送る被害者とその家族の現実を取り上げていきたいと思います。
友達同士のように仲の良い、山本せつみさん、一真さん親子。東京、日比谷公園で(筆者撮影)