事故死した息子のために闘った母の15年 なぜ検察は、突然「信号無視」に変えたのか
2020.12.18(金)
Yahoo!ニュース特集で執筆した『あまり報道されない重傷事故の「その後」』(2020.12.15)には、同様の体験をしたという交通事故当事者の方々から、多くの声をお寄せいただきました。
加害者の嘘、保険会社から一方的に押し付けられる理不尽な過失割合、警察・検察のずさんな捜査、そして、真実を見極めない裁判所。
ある日突然、交通事故に遭い、その日を境に、どれほどの理不尽に苦しめられるか……。
記事に寄せられた投稿の数々に目を通しながら、その訴えがパターン化していることに、改めて問題の深刻さを感じました。
「記事で取り上げられていた被害者のお二人はいずれも大変な思いをされていました。二人目の水野さんは、事故で足を失い、青春を奪われ、加害者や保険会社と10年もの間、闘われ、地獄の毎日だったと思います。裁判で勝訴されたことは本当に良かったですが、障害の苦しみは一生続きます。嘘を言い、不法行為をした人には、それを償う義務があると思います」
というコメントを寄せてくださったのは、静岡県在住の阿部智恵さんです。
阿部さんもまた、加害者の供述の変遷とずさんな捜査に苦しめられた遺族です。
「息子はまだ29歳、やりがいのある仕事に就き、結婚も間近に控えていました。どれほど無念だったことでしょう。私は、加害者、検察、裁判所、保険会社の理不尽な行為を、自分の命が消えるまで忘れることは出来ません……」
■直進バイクの目の前に、突然Uターンの対向車が現れて…
事故は2001年10月16日午後5時半ころ、愛知県豊田市小川町の交差点で発生しました。
仕事を終え大型バイクで帰宅中だった阿部浩次さん(当時29)は、北から南に向かってこの交差点を直進、そのとき、交差点中央のゼブラゾーンに停止していた対向の軽トラックが、Uターンをするため発進したのです。
突然、進路を塞がれた浩次さんは、とっさに衝突を避けようとしましたが間に合わず、身体は軽トラックの荷台の下に滑り込み、そして、バイクはそのまま軽トラックの左前輪に衝突しました。
すぐに救急搬送された浩次さんでしたが、心肺停止の状態で、約1時間後、死亡が確認されました。
死因は脳挫傷でした。
「実は、息子の婚約者はこの病院に勤める看護師さんでした。自分の愛する人が、突然、変わり果てた姿で……、それを目の当たりにしたときの彼女のショックは、とても想像できるものではありませんでした」
モトクロスの選手でもあり、ライディングの技術も高かった浩次さん。大学では、エンジンの構造を勉強するため「内燃機関研究部」という研究サークルに入っていた(阿部さん提供)
軽トラックを運転していた加害者は、浩次さんと同じ29歳。現場交差点のすぐ横の運送会社に勤めている男性でした。
警察は事故直後、阿部さんの家族に「事故の原因は強引にUターンしようとした対向車の方にある。浩次さんは青信号で直進中だった」と説明しました。
「事故後、初めて愛知県警の豊田警察署に出向いたときのことです。対応した警察官は穏やかな口調で『目撃者が出て下さいました。よかったですね。浩次さんの側の信号は確かに青でした。事故の相手にも、原因はそちらにあると言ってありますからね』と説明されたのです。立ち直れないほどの悲しみの中にいた私たちでしたが、目撃者が自ら名乗り出て証言してくださったと聞いたときは、本当に嬉しかったです」
警察の説明によると、交差する道路で信号待ちをしていたドライバーは、次のように話していたそうです。
「赤で信号待ちをして止まっているとき、数台の車が通った直ぐあと、目の前を黒いものと人が分かれて飛んで行きました。その直後、人が倒れているのが見えたので、ああ、事故が起きたんだ、と思いました」
交差する道路の車が赤信号で止まっていたということは、浩次さんが直進していた道路は青信号だった、つまりこの事故は、バイクが直進してきたにもかかわらず、対向の軽トラックが突然Uターンしたために発生した事故ということになります。
「担当警察官はとても優しく、丁寧に事故状況を説明し、生前の浩次のことや、私たち遺族の思いを何時間もかけて真剣に聞いて下さいました。そして最後には、『まもなく検察庁からご遺族に呼び出しが来ますので、言いたいことをメモしておくとよいですよ。検察庁に行ったら、思っていることを何でも言ってくださいね』とアドバイスまでしてくれたのです」
■検察から突然の「不起訴」連絡。その理由に愕然……
ところが事故から1年2か月後、名古屋地方検察庁岡崎支部の副検事から突然かかってきた電話に、阿部さんは耳を疑いました。加害者が不起訴になったというのです。
阿部さんが理由を聞くと、事故の原因は浩次さんの赤信号無視にあると。
「一瞬、耳を疑いました。待ち続けていた検察庁からの呼び出しは、一度もないままだったからです。私はびっくりして、副検事に言いました。『警察では目撃者が出て証言してくれたと聞きました。息子の信号は青だった、事故は加害者の軽トラックがUターンするために突然出てきたと。警察は、事故状況について相手に話してあるとも言っていました』必死でそう反論しました」
しかし、副検事は聞く耳を持たなかったと言います。
阿部さんは振り返ります。
「副検事は受話器の向こうで急に声を荒らげ、『そのやりとりはテープにとってあるんですか? 口答では証拠にはならない!』と怒鳴り、さらにこう続けました。『被疑者は信号が赤になったから出た。目撃者も『事故が起きてすぐに対面信号を見たら青になっていた』と言っている。だからバイクは、『赤・赤』の3秒の間に入ったんだ。初めから赤だと言ってんだー!』と。私は、にわかに信じられませんでした」
後日、郵送されてきた書類には、浩次さんのバイクの側に「信号無視、スピード(時速71キロ)の違反あり」と書かれていました。その内容は、私たちが警察で事故後に聞いた説明とはまったく異なるものだったのです。
後に、高検の検事は阿部さんに対して「加害者は警察では信号のことは話していなかった」と告げています。つまり、副検事の「初めから赤だと言っていた」という説明は、虚偽ということになるのです。
また、目撃者の証言についても、副検事の説明は事実ではありませんでした。
目撃者は民事裁判で、『事故の直後、加害者は車から降り、トラックの周りを廻ってから倒れている被害者の所に行った。その後、信号青に気づいた」と、具体的に証言したのです。
「そういえば、保険会社から一度、「本当はお宅の息子が赤で入ったんだ」という脅迫めいた電話が入ったことがありました。相手の保険も息子の保険も同じ損保会社なので、もう事故状況を結論づけていたのかもしれません。今思えば、相手はそのころから検察でそのような供述をし始めたようです。息子が赤信号で入ったと言うなら、検察は息子が信号無視やスピード違反をした証拠をつかんでいなければならないはずですが、こちらがその説明を求めても、証拠の提示は何ひとつなされませんでした。信じられないかもしれませんが、まさに、死人に口なしの事故処理がおこなわれたのです」
■息子の無過失を信じ、闘い続けた15年間
どうしても納得できなかった阿部さんは、浩次さんの無過失を証明するため、徹底的に闘う覚悟を決めました。
「なぜ、警察の当初の説明が、検察に上がったとたん180度変わってしまったのか? 何としても息子の名誉だけは守ってやりたいという一心で、私たちは自宅から遠く離れた事故現場に何度も足を運び、信号サイクルを調べ、交差点で交通状態の観察を続けました。また実際に軽トラックを借り、Uターンする運転手は信号をどう見ているか、ゼブラゾーンの中に止めたトラックの中からの信号機はどのように見えるか、などの実験を繰り返しました」
阿部さんが立証のために作成した信号サイクルの図(阿部さん提供)
しかし、不起訴を不服とした申立ては認められず、刑事事件は時効を迎えます。加害者を相手に起こした損害賠償訴訟でも結果的に阿部さんの主張は認められず、直進していた浩次さんに6割の過失があるとされて敗訴しました。
捜査を怠った検察を相手に本人訴訟で国家賠償訴訟も起こしますが、こちらも棄却。
ここではとてもすべてを書ききることはできませんが、阿部さんは、自分自身でおこなった特別抗告が認められ、事件は最高裁に送られましたが、結果的に棄却。事故から約15年間の歳月を真実究明のために捧げたのです。
阿部さんは語ります。
「私たちは、息子の命を奪われたばかりでなく、息子の名誉まで失いました。検察庁を訴えたいと言っただけで、ほとんどの弁護士に断られ、裁判の出費も莫大なものになりました。ずさんな事故処理によって、生活の基盤である仕事、健康、生きる力までも奪われました。交通事故はなぜこうも軽く扱われるのでしょうか……」
阿部さんは3年前、理不尽な捜査の実態と長い闘いの日々の記録を1冊の本にまとめ、自費で出版しました。タイトルは、『僕は、信号無視をしていない! 検察の理不尽な捜査と闘った、母の15年間の記録』。
同じ思いをする交通事故被害者、遺族が一人でも減ることを願って、こつこつとまとめたといいます。
「事故によって突然人生を奪われた被害者、遺族の苦しみ、悔しさは皆同じです。何年経っても消えることはありません。捜査機関は、その重大さを知り、慎重な捜査をおこない、裁判官は全ての事件に対して正当で平等な判断を下してください。死人に口なしの判断は、絶対にしないで下さい」
阿部さんはずっと、不起訴の証拠と根拠についての説明を求め続けてきました。しかし、今も返ってくる答えは、「回答できない」の一言だそうです。