幕末に渡米したサムライが書いた、異国の鉄道についてのイラスト入り詳細レポート
『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第66回)
2024.10.15(火)
10月14日(祝)は、「スポーツの日」でした。さわやかな秋晴れのもと、さまざまなスポーツに汗を流した方も多いことでしょう。
この日は「世界標準の日」でもありました。「世界標準(international standard)」とは、国際交易を円滑にはかるため、世界各国のさまざまな規格や基準を統一化したもの。終戦翌年の1946年10月14日、25カ国がロンドンで標準化促進のための世界的組織創設を決定したことを祝い、記念日として制定されました。
そしてもうひとつ、10月14日と言えば「鉄道の日」でもあります。1872年10月14日、日本で初めて鉄道が開通してから今年で152年、国土交通省のサイトでは次のように紹介されています。
〈明治5年(1872年)10月14日、新橋-横浜間に日本で最初の鉄道が開通したことを受け、平成6年(1994年)、その誕生と発展を記念し、毎年10月14日を「鉄道の日」と定めました。鉄道が国民に広く愛され、その役割についての理解と関心がより深まることを願い、鉄道事業者、関係団体、国などが「鉄道の日」実行委員会を組織し、毎年多彩な行事を全国各地で実施しております。なお、今年は、「鉄道の日」が制定されてから31回目を迎えます〉(国土交通省 「鉄道の日」について)
鉄道開業当時の機関車の実物が見学可能
今から152年前の鉄道創業当時、新橋と横浜間を実際に走った車両(110形蒸気機関車)は現存しており、今も間近で見学することができます。当時の列車が発着した「旧横濱駅」が、現在の桜木町駅だったことにちなんで、同駅の新南口前にあるシァル桜木町アネックス1F「旧横ギャラリー」(旧横濱鉄道歴史展示)では、2020年6月から、当時使われていた蒸気機関車の現物のほか、中等客車の再現、鉄道の歴史を解説するパネルの展示がおこなわれているのです。
110形蒸気機関車(筆者撮影)
オープン時がコロナ禍のただ中だったこともあり、まだ足を運べていないという人も多いかもしれませんが、何といってもここは鉄道発祥の地。鉄道の歴史を感じるには欠かせない場所と言えるでしょう。
鉄道と小栗上野介
さて、その展示会場の中に、「小栗上野介」と「製鉄(造船)所」について解説したパネルがあります。江戸幕府で有能な幕臣であった小栗忠順(おぐりただまさ/1827~1868)については、本連載の中でもたびたび取り上げていますが、なぜ、明治5年の鉄道開通の解説に、幕府で活躍した人物の名が登場するのか、経緯をご存じない方は不思議な気がするかもしれません。
万延元年遣米使節団の幹部。左から左から副使・村垣範正、正使・新見正興、目付・小栗忠順 =1860年撮影(Alexander Gardner,Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
実は、日本に鉄道が初開通する12年前の1860年、小栗(当時32)は、「万延元年遣米使節*」のナンバー3(目付)として総勢70名を超える使節団を率い、パナマやアメリカ東海岸で、鉄道乗車の体験をしていたのです。模型ではない本物の蒸気機関車に乗った日本人は、ジョン万次郎のような漂流者を除き、彼らが初めてでした。
* 1860年、日米修好通商条約の批准書をアメリカ大統領と交わすため、幕府が差し向けた使節団。米軍艦「ポーハタン号」等に乗船し、約9カ月をかけて地球を一周し、江戸に帰着した。
当時30歳だった本連載の主人公「開成をつくった男 佐野鼎(さのかなえ)」も、万延元年遣米使節団の随行員として小栗らと共に初めての蒸気機関車を体験しています。そのときの興味深いエピソードについては、本連載の45回目で、佐野の残した詳細な訪米日記を紹介しながら執筆しました。
(参考)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記 (2020年10月14日)
佐野鼎の日記には、初めて目にした本物の蒸気機関車を指す言葉として、「蒸気車」と「火輪車(かりんしゃ)」の2種類が登場します。幕末には、蒸気機関で動く船のことを「蒸気船」または「火輪船」と呼んでいたので、自然とこの表現になったものと思われます。
明治維新の8年前、初めて蒸気機関車を体験し、優れた造船所なども見学した小栗は、日本に帰国後、海外の進んだ技術や文化を積極的に日本に取り入れようとします。そして、横須賀製鉄所をはじめ、日本の発展のため、さまざまな近代化事業に着手したのです。
(参考)横須賀基地に残る幕臣・小栗忠順の巨大な功績、なのに最期は悲劇的な死が(2022年12月8日)
残念ながら小栗は、1868年、何の取り調べもないまま新政府軍によって斬首され、明治の世を見ることなく逝ってしまいましたが、明治5年の鉄道開通においても、幕末から小栗らが推し進めていた近代化事業が礎となっていたことは間違いのない事実です。
「蒸気車機関のカラクリは蒸気船と同じである」
万延元年遣米使節の一行には、小栗のような幕臣のほか、身分は低くても優秀な若者たちが多数含まれていました。そこで今回は「鉄道の日」にちなんで、小栗上野介の従者通弁役として随行し、佐野の親友でもあった、肥後(現在の熊本)藩士の木村鉄太(当時31)の『航米記』から、鉄道体験のくだりを紹介したいと思います。
木村は「蒸気車」に「ステエムカル(スチームカー)」とカタカナでルビをふり、『蒸気車機関のカラクリは蒸気船と同じである』と説明したうえで、次の一文を綴っていました。さすが小栗の従者だけあって、車両の作りからレールの敷設方法まで詳細に観察し、記録されていることがわかります。
以下、『万延元年遣米使節 航米記』(高野和人著/熊日出版)より抜粋します。
『今日はすべて八車を接続させて一連としている。第一番目の車は、上に蒸気機関を載せている。機関手が石炭を燃やし、蒸気の力で車軸を運転させている。第二の車は石炭を積んでいる。第三の車は糧水および荷物を運ぶ。第四から第八の車までが人を乗せている。車中の両窓の椅子を連ねると、合わせて二十四席あり、一つの椅子ごとに二人を座らせて、四十八人乗ることができる。中央が歩廊(廊下)になっている。
木村鉄太が描いた蒸気機関車(『万延元年遣米使節 航米記』より)
車を繋ぐのに蝶和(蝶番=ちょうつがい)を用い、皆八車の中を自由に往来している。車道(線路)は平地に材木を横たえ、両端に長い鉄の梁を架けて、車はその上を走っていく。鉄梁の溝と車輪の溝とよく合って、食い違わないようにしてある。
数丁行くにつれ次第に速度が出て、ついに矢の飛ぶように速く、窓に近い草木や砂礫は見つめることもできない。車輪の軋む音が響いて雷のよう、座席で向かい合っていても、話もできない』
使節団が初めて乗車したパナマ鉄道
木村鉄太は異国での異文化体験を記した日記と共に、ハワイ、サンフランシスコ、パナマ、ワシントン、ニューヨークなどで120枚を超える詳細なスケッチを遺し、今に伝えています。帰国後、間もなく病に倒れ、若くして亡くなったのは残念でなりません。
熊本県玉名市にある木村鉄太の墓の碑(筆者撮影)
新橋-神戸間の東海道線全線開通は明治22年
明治5(1872)年、新橋-横浜間に日本初の鉄道が開通してから2年後、今度は関西でも鉄道開通の日を迎えます。
明治7(1874)年5月11日には神戸駅が誕生し、大阪-神戸間に官設鉄道が開通。さらに3年後の明治10(1877)年2月5日には、神戸-京都間が全通します。このときは、京都、大阪、神戸のすべての駅で、明治天皇臨御の記念式典が開催されたそうです。
以下の写真は、明治10年5月改正の「大阪神戸間時刻表」と「賃金表(運賃)」が和紙に版画で刷られたものです。
和紙に版画で刷られた明治10年の大阪-神戸間の時刻表と運賃表(筆者撮影)
これは、歴史研究者であった筆者の夫の祖父・柳原多美雄が生前に入手していたものなのですが、当時の時刻表にはこのようなかたちのものもあったのですね。
運賃は席のグレードによって「上・中・下」と差がつけられていることがわかります。神戸から大阪までの「上」席の運賃は1円(100銭)。当時のうな重が一人前20銭だったという記録をもとに振り返ると、かなり贅沢な乗り物であったことがうかがえます。
ちなみに、この時刻表が発行された明治10年の夏頃から、日本ではコレラという恐ろしい感染症が大流行します。佐野鼎は東京で開成学園の前身となる共立学校を創立して6年目を迎え、生徒の数もどんどん増えていましたが、この年の10月、コレラに罹患し、48歳という若さで亡くなってしまいます。
新橋-神戸間の東海道線全線が開通するのは、それから12年後の明治22(1889)年7月1日のことです。もし佐野鼎が還暦まで生きていれば、きっと日本の鉄道の発展に目を細めたことでしょう。
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記
(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎
(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味
(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句
(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点
(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂
(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した
(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命
(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記
(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」
(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック
(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅
(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士
(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師
(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父
(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」
(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記
(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯
(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?
(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身
(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち
(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記
(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志
(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目
(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由
(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析
(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇
(第54回)『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた
(第56回)「餅は最上の保存食」幕末、黒船の甲板で餅を焼いた日本人がいた
(第57回)遣欧使節の福沢諭吉や佐野鼎にシンガポールで教育の重要性説いた漂流日本人
(第58回)東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由
(第59回)水害多発地域で必須の和算、開成学園創立者・佐野鼎も学んで磨いた理系の素養
(第60回)暴れ川・富士川に残る「人柱伝説」と暗闇に投げ松明が舞う「かりがね祭り」
(第61回) 横須賀基地に残る幕臣・小栗忠順の巨大な功績、なのに最期は悲劇的な死が
(第62回) 消息がつかめなかった「開成の創始者」佐野鼎の“ひ孫”とついに遭遇
(第63回) 50万人の群衆!164年前の米国人が熱狂、訪米した「サムライ」の歓迎特大パレード