幕末に米軍艦でアメリカを目指したサムライたち、洋上で目撃した「オーロラ」をどう記録したか
『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第65回)
2024.5.16(木)
5月11日の夜から12日の未明にかけて、日本ではめったに見られないオーロラが全国各地で観測されました。さまざまな色に変化した夜空の写真がニュースやSNSで紹介されましたが、どれも驚くほど幻想的です。
【参考:外部リンク】オーロラ 北海道名寄町や陸別町で観測 夜空が薄紫色に変化 「太陽フレア」の影響で(NHK:2024年5月12日)
上記記事の中で、北海道陸別町にある銀河の森天文台の津田浩之館長は次のように話しています。
『ここ数日、太陽の表面で「太陽フレア」と呼ばれる爆発現象が起きた影響で地球の磁場が乱れる「磁気嵐」が発生し、北海道のようなふだんより緯度の低い地域でもオーロラが観測できた』
これを読みながら、「なるほど……」と、わかったようにうなずいてはみたものの、そもそも「太陽フレア」が何なのか? 「磁気嵐」ってどんな嵐なのかがさっぱりわかっていない私には、低緯度の地域でオーロラが見える理由が理解できるはずもなく、ただただ、各地から届く美しい空の写真を眺めながら感動するばかりでした。
太平洋上でオーロラを見ていたサムライたち
さて、「オーロラ」といえば、今から164年前の1860年、幕府から遣米使節*1としてアメリカへ向かっていた日本のサムライたちが、太平洋上で偶然にも目撃していたことをご存じでしょうか。
*1 「万延元年遣米使節」/1860年、日米修好通商条約の批准書交換を目的に、幕府がアメリカへ差し向けた77名の使節団
それはちょうど、ハワイからサンフランシスコに向かう航路の途中でした。太平洋、しかもその緯度でオーロラを観察できること自体珍しかったようで、日本人使節たちは甲板で、真っ赤に染まった夜の空を見上げながら、感嘆の声を上げていたようです。
彼らの航海日記には、そのときの光景が、それぞれに驚きをもって記録されています。中でも、蘭学をきわめ、高度な天文学を学んでいた、いわゆる「テクノクラート」的な従者たちの記述を見ると、幕末期とはいえ彼らがいかにこうした現象を科学的にとらえ、理解しようとしていたか、そのレベルの高さに驚かされます。
特に、本連載の主人公「開成をつくった男 佐野鼎(かなえ)」は、その筆頭といえるかもしれません。
「北光」として記録
使節団の眼前にオーロラが現れたのは、1860年3月7日(旧暦)の深夜のこと。ちなみに、4日前の3月3日には江戸で桜田門外の変が起こり、井伊直弼が暗殺されるという大事件が起こっていました。しかし、江戸から遠く離れた太平洋上にいた彼らには、まだその知らせは届いていませんでした。
真夜中にもかかわらず、水平線のあたりが明るく光り出したかと思うと、赤とも紫ともつかぬ色の空が一面に広がり、海面に映り込んでくる……。
日本人使節たちは驚いて、次々と甲板へと繰り出し、
「北の方をご覧くだされ、炎のようなものが見えますぞ」
「な、何事じゃ、天変地異の前触れか、それとも、海の魔物が現れたか!」
「血の池地獄のようじゃ」
おそらく、こんな声を上げていたのではないでしょうか。
誰もが初めて目にするオーロラ。このとき彼らは、目の前で起こっている摩訶不思議な現象をどのように記録していたのでしょうか。
下の写真は、小栗豊後守の従者通弁役(通訳)として遣米使節の一員となった、肥後国高瀬(現・熊本県玉名市)出身の木村鉄太(31)による直筆の『航米記』です。
ちょうど中央部分、「○北光」という見出しのついた文が、まさに、この夜に見たオーロラについての記録です。
肥後国高瀬出身の木村鉄太が記した『航米記』に残るオーロラ目撃の際の記述(著者・木村鉄太/発行者・高野和人/青潮社)より抜粋
現代語訳は次の通りです。
○北光
昨夜八時、北方に光があった。焔(ほのお)のような火が見えた。海面が明るいこと月夜のようだ。これはオランダでいうノウルド・リュフトというもので、陰気が積鬱すると生じ、北方に多い。この北光はいつも北極星の下にできるもので、常夜の国はこの明かりに頼って大いに助けを得るといわれている。(『現代語訳 万延元年遣米使節 航米記』/熊本日日新聞社より抜粋)
木村鉄太は、「昌平坂学問所」という幕府直轄の学問所で安積艮斎(あさかごんさい)の教えを受け、漢学や朱子学を学びました。そして、洋学者であり明治期には外交官として活躍した手塚律蔵からは、蘭学を学んでいた秀才です。木村鉄太はオーロラのことを「ノウルド・リュフト」と記し、この現象が起こる理由について、「陰気が積鬱すると生じ」と書いています。
木村鉄太の肖像写真。『航米記』(著者・木村鉄太/発行者・高野和人/青潮社)より抜粋
木村鉄太は佐野鼎と親しく、ハワイやアメリカではよく一緒に視察に出かけていたようです。
しかし遣米使節の旅から帰国後、体調を崩し、2年後に亡くなりました。
「これノヲゼルンライトなり」
では、本連載の主人公である佐野鼎は、人生初のオーロラについて、どのように理解し、日記に書き留めていたのでしょうか。
早速、彼がまとめた『万延元年訪米日記』から、その箇所を抜粋します。
『此の夜八つ時頃(*午前2時頃)、北方に月の昇るときの如きものを見ること半時許。何もの足るを知らず、甚だ怪とす。翌日之を米人に問ふに、彼答へて曰く、これノヲゼルンライトなりと。初めて思ふ、所謂(いわゆる)北光一名北閃なることを』
佐野鼎は当初、目の前で起こっている現象が何であるか、詳細がわからなかったようです。しかし翌朝、ポーハタン号に乗船していた米国人(おそらく、船の中で英語を教えてもらっていたヘンリー・ウッド牧師)にたずねて、「Northern light=オーロラ」であると教わっています。
前出の木村鉄太は、オーロラのことを「ノウルド・リュフト」とオランダ語で記載していました。佐野鼎も木村と同じく、それまで長年、オランダ語を学んでいたわけですが、ポーハタン号の中では、短期間のうちに英語を覚えようとしていたことが見て取れます。
「蒸発気中のエレキテル、電光となりてマグネイトのテレガラーフ線を馳走し…」
さらにこの日の日記を見ていきましょう。
『此の北閃は地球を囲繞(*いじょう=周りを囲い廻らすこと。とりまくこと)する蒸発気中に一物あり。エレキテルと名づく。此のもの電光となりてマグネイトのテレガラーフ線を馳走するものにして、甚だ幽微の流動物たり』
現代語訳は、以下の通りです。
<この北閃は地球を取り囲む空気中にエレキテルと名付けられたものがあり、これが電光となってマグネイトの電線を走り回るもので、大変神秘的な流動体である>(内藤徹雄訳『佐野鼎遺稿「万延元年訪米日記」を読む その1』より)
オーロラという現象がなぜ起こるのか……、佐野鼎はウッド牧師から英語で教わった内容を、英和辞典も和英辞典もない中、懸命に咀嚼レポートしていたことがわかります。
この日記は日本に帰ったとき、自身が仕えている加賀藩の藩主・前田斉泰公に報告するためのものでもありました。それだけに、できるかぎり正確に伝えようとしたのでしょう。
それにしても、江戸時代のサムライが、「地球」「エレキテル」「マグネイト」「テレガラーフ線」といった言葉を駆使して、オーロラの発生メカニズムを説明していたとは……。初めて佐野鼎の日記に触れたときは、そのレベルの高さに大変驚きました。
少し話はそれますが、実はちょうどこの頃、佐野鼎には女児が誕生しており、彼はその子に「茜(あかね)」と名付けていたとみられます。おそらくあの日、太平洋上で目にした茜色の美しいオーロラの印象が強く、そこから「茜」と名付けたのではないか……勝手ながら私はそう推測し、小説『開成をつくった男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)に記しました。
『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)
しかし、悲しいことに、茜は文久3(1863)年11月11日、数え年3歳で亡くなってしまいます。かわいいさかりに、幼い娘を失った悲しみはいかばかりだったでしょう。
164年前、太平洋上に出現した茜色のオーロラ。現代と違って、写真は一枚も残っていませんが、佐野鼎のまぶたにはずっとそのときの光景が焼き付いていたことでしょう。
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記
(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎
(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味
(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句
(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点
(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂
(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した
(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命
(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記
(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」
(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック
(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅
(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士
(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師
(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父
(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」
(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記
(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯
(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?
(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身
(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち
(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記
(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志
(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目
(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由
(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析
(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇
(第54回)『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた
(第56回)「餅は最上の保存食」幕末、黒船の甲板で餅を焼いた日本人がいた
(第57回)遣欧使節の福沢諭吉や佐野鼎にシンガポールで教育の重要性説いた漂流日本人
(第58回)東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由
(第59回)水害多発地域で必須の和算、開成学園創立者・佐野鼎も学んで磨いた理系の素養
(第60回)暴れ川・富士川に残る「人柱伝説」と暗闇に投げ松明が舞う「かりがね祭り」
(第61回) 横須賀基地に残る幕臣・小栗忠順の巨大な功績、なのに最期は悲劇的な死が
(第62回) 消息がつかめなかった「開成の創始者」佐野鼎の“ひ孫”とついに遭遇