消息がつかめなかった「開成の創始者」佐野鼎の“ひ孫”とついに遭遇
『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第62回)
2024.2.2(金)
元旦に発生した能登半島地震から1か月が経過しました。今もライフラインが復旧していない地域が多数あるそうで、連日の報道を見ながらその爪痕の大きさに驚くばかりです。
石川県を中心とする今回の被災地域は、江戸時代、前田家が治める加賀藩の領地でした。金沢市内にある国指定史跡の「加賀藩主前田家墓所」も、今回の地震で大きな被害を受けたそうで、市のサイトでは、『史跡内の灯籠や玉垣などで倒壊・破損などが確認されています。見学する際は近くに近づかないように……』と、注意をしています。
加賀は日本一の大藩だったこともあり、能登半島には漆器や陶器、染め物など数多くの素晴らしい工芸品が受け継がれてきました。被災地の日常生活はもちろん、こうした伝統産業が一日も早く復興することを祈るばかりです。
英国による七尾港開港の要求を撥ねつけた佐野鼎
さて、本連載の主人公である「開成をつくった男 佐野鼎(さのかなえ・1829~1877)」は、駿河国(現在の静岡県富士市)の出身ですが、幕末、砲術師範として加賀藩に出仕し、金沢城の近くに居を構えていました。今回の地震で被災した七尾では語学所を立ち上げたり、製鉄所の建立を計画したりするなど、とても深いつながりがあります。
明治維新の直前(1867年)には、七尾港の開港を強く迫ってきたイギリス公使、ハリー・パークスとの会談を一任され、英語を駆使して交渉にあたりました。そして、当時の藩主・前田斉泰の命に従い、さまざまな事情を根気強く伝えて開港の要求を退け、七尾港を死守したのです。
万延元年遣米使節(1860年)、文久遣欧使節(1862年)の随行員として、世界中の港を我が目で視察し、七尾の価値を誰よりも見出していた佐野鼎。彼も今回の大震災に心を痛めていることでしょう。
(参考記事)『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた(2021.6.26)
講談社を訪ねてきた「ひ孫」
さて、年明け早々、辛いニュースが続きましたが、佐野鼎研究会や開成学園にとっては嬉しい出来事もありました。これまで消息がわからなかった佐野鼎の直系子孫が見つかり、その方と初めて対面することができたのです。
実は、開成学園の会報誌の記事や金沢の歴史研究者の論文には、戦後まもなく、大阪府池田市に在住していた佐野鼎の孫・佐野貞雄氏に直接面談し、佐野家で所蔵写真等を閲覧した記録が残されています。ところが、それ以降の消息が、なぜかぷつりと途絶えていたのです。私も佐野鼎の伝記小説を執筆するにあたり、さまざまなルートから懸命に捜しましたが、結局見つからず今に至っていました。
ではなぜ、今回対面することができたのか――。
そのきっかけは、講談社から入った一本の電話でした。なんと、“佐野鼎のひ孫”を名乗る高齢の男性が、「『開成をつくった男 佐野鼎』という本が出版されていることを知り、ぜひお礼を述べたい」そう言って、直接会社を訪ねてくださったというのです。
すぐにその方のお父様の名前を確認してもらったところ「佐野貞雄」、しかも、家族で池田市に住んでいたとのこと。これはもう、ずっと捜し続けてきた佐野鼎の直系のご子孫に間違いありません。
本が出版されてから約5年も経って、まさかこのような展開が待っていようとは……。あの本を書いて本当によかったと、心から思えた瞬間でした。
子孫も知らなかった『開成をつくった男、佐野鼎』の出版
講談社に来訪くださったのは、佐野公明(きみあき)氏。昭和13年生まれの85歳です。長年、読売新聞大阪本社に勤務し、文化部音楽担当の記者として世界各国を取材。退職後はマレーシアに移住されているということでした。
公明氏と佐野鼎の関係については、以下をご覧ください。
佐野鼎(文政12年生まれ)――長男・鉉之助(慶応元年生まれ)――長男・貞雄(明治37年生まれ)――長男・公明(昭和13年生まれ)
つまり、公明氏は佐野鼎と109歳違いのひ孫にあたります。
公明氏は、曽祖父である佐野鼎の本を見つけたときの喜びをこう語ってくださいました。
「今回の本の件、我々は全く知らず、甥(妹の息子)がモバイルで検索する中で偶然見つけたそうです。そして、『佐野鼎の本が出ているよ、凄い!』と私に連絡があり、大変驚いた次第です。私もすぐに入手して読ませていただきました。曽祖父についてここまで詳細に調べ、こうしてまとめていただき、本当にありがとうございました。とにかく、私は平身低頭、まずはお礼を申し上げたく、出版社に伺わせていただいたのです」
早速、開成学園にも「創立者の直系子孫発見」のニュースを伝えたところ、「ぜひ、日本滞在中にお目にかかりたい」ということになり、学園祭の日、開成学園に直接お越しいただくことになりました。
ついに面談
初めて開成学園を訪れた佐野鼎のひ孫・佐野公明氏
私もこの日、母や従兄とともに開成学園に向かい、そこで初めて公明氏と対面しました。佐野鼎は私の母方の傍系先祖にあたるのですが(佐野鼎は分家筋)、傍系とはいえ、やはり親戚同士です。公明氏とはすぐに打ち解け、初めて会ったとは思えない、なんともいえぬ懐かしさを覚えました。
校長室での集合写真/前列右が開成学園の野水校長、左隣が佐野公明氏、筆者は後列右から2番目。後ろの壁の左側の肖像画は佐野鼎、右が高橋是清
公明氏は曽祖父がつくった開成学園(創立時の名称は共立学校)を初めて案内され、大変驚かれた様子でした。
「曽祖父が佐野鼎であることは聞いていましたが、開成学園創立の経緯などはほとんど知りませんでした。現在、日本でも屈指の立派な学校になっているとは、私も大変感銘を受けました。曽祖父も創始者として、きっと喜んでいることでしょう。これまで子孫として何もできませんでしたが、これから少しずつお返ししていければと思っています」
佐野公明氏。学校創立の地・お茶の水に建てられた「開成学園の碑」の前で
また、開成中学校・高等学校の野水勉校長は、学園の創立者・佐野鼎の直系子孫発見を受け、こう語ります。
「153年前に開成学園の前身である共立学校を創立した佐野鼎先生のひ孫の佐野公明氏が、85歳にもかかわらずご健在で、現在マレーシアに住んでおられることがわかりました。そして、開成祭(文化祭)の初日に開成学園を訪問していただきました。
佐野鼎先生の長男・佐野鉉之助(げんのすけ)氏が共立学校に在籍した後、共立学校や開成学園との関係が途絶えていた模様ですので、このたびのご訪問は、開成学園の歴史における大ニュースとなりました。
今回のことは、2018年に出版された『開成をつくった男 佐野鼎』の本を、直系のご子孫である公明様が読まれたことがきっかけとのことで、その魅力ある文章が読者を拡げ、佐野鼎先生のご子孫を引き寄せたことだと思います。改めてご執筆に感謝申し上げます」
新たな歴史発掘なるか
さて、公明氏とはその後、LINEでつながり、帰国された後もひんぱんに連絡を取り合うようになりました。そして、「ぜひマレーシアの自宅に泊まりにいらしてください」とお声かけいただき、今年1月、私と母、佐野家の従兄夫婦、そして佐野鼎の片腕であった教師・遊佐生気(せいき)の子孫(佐野家とは姻戚関係)と共に、マレーシアに渡航し、4日間滞在させていただきました。
公明氏の自宅には開成学園の前身で、明治4年に創立された共立学校の集合写真も保管されていました。これは東京国立博物館に所蔵されているものと同じものです。この写真を見ると、当時は男女共学であったこと、外国人教師を雇用していたこと、また4~5歳とみられる幼い子どもたちもこの学校で学んでいたことがわかります。
明治6年に撮影された共立学校の集合写真。バルコニー前列右から3人目が佐野鼎(公明氏所蔵)
そのほか、公明氏の父・貞雄氏が作成した貴重な家系図の巻物も残されており、佐野鼎のルーツ、また、佐野鼎から現代にいたるまでの家族構成も把握することができました。家系図については、さらに内容の調査を進めていきたいと思います。
かつて佐野鼎の孫である貞雄氏が所蔵されていた、髷に羽織袴姿の肖像写真(おそらく佐野鼎が文久遣欧使節で欧州に渡航したときのもの)や、断髪後、妻の春と共に撮影された明治期の写真が、マレーシアのご自宅に見当たらなかったことは残念でしたが、これらの貴重な古写真が日本の親族宅から発見されることを願っています。
佐野公明氏は2024年4月に再来日されるとのこと。それに合わせ、開成学園においては佐野鼎の胸像披露のほか、佐野鼎研究会が開催される予定だそうです。
江戸、明治、大正、昭和、平成、令和――、6つの時代を経てつながってきた直系子孫の発見によって、佐野鼎をとりまく明治維新後の人脈など新事実が明らかになるかもしれません。さらなる歴史発掘に期待したいと思います。
『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記
(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎
(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味
(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句
(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点
(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂
(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した
(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命
(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記
(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」
(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック
(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅
(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士
(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師
(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父
(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」
(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記
(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯
(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?
(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身
(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち
(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記
(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志
(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目
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(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇
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(第59回)水害多発地域で必須の和算、開成学園創立者・佐野鼎も学んで磨いた理系の素養