ジャーナリスト・ノンフィクション作家 柳原三佳オフィシャルサイトHP

ジャーナリスト・ノンフィクション作家 柳原三佳オフィシャルHP

暴れ川・富士川に残る「人柱伝説」と暗闇に投げ松明が舞う「かりがね祭り」

『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第60回)

2022.10.14(金)

JBPress連載 第60回記事はこちら

暴れ川・富士川に残る「人柱伝説」と暗闇に投げ松明が舞う「かりがね祭り」

 10月11日から新型コロナウイルスの水際対策が大幅に緩和され、外国人の個人旅行やビザなし渡航が解禁されました。国内でもさまざまな支援策が打ち出されたことから、この秋には旅行のプランを立てているという方も多いことでしょう。

 新型コロナの影響で中止や延期を余儀なくされていたお祭りも、今年は3年ぶりに開催を決めたところが多く、全国各地で盛り上がりを見せているようです。

富士川の堤防で行われる勇壮な火祭り

 本連載の主人公「開成をつくった男・佐野鼎(かなえ)」が今から193年前に産声を上げた富士市でも、今年10月1日(土)、3年ぶりに「かりがね祭り」が開催されました。

(参考)日本観光振興協会HP<かりがね祭り>
https://www.nihon-kankou.or.jp/shizuoka/222101/detail/22210ba2212015247

 富士川の下流に位置する「雁堤(かりがねづつみ)」、この堤防を会場に、毎年開催されてきた祭りのハイライトは、十数メートルの高さにセットされた「ジョウゴ」(「蜂の巣」とも言う)と呼ばれる大きな籠をめがけ、地上から火のついた薪を回しながら投げ入れる「投げ松明(たいまつ)」です。

地上高く設置された籠がジョウゴ(筆者撮影)

地上高く設置された籠がジョウゴ(筆者撮影)

 松明がうまく籠に入って火が着けば、ジョウゴは花火が破裂するような音と共に、暗闇を明るく照らしながらたちまち燃え上がり、最後にはさらに大きな炎の塊となって高い場所から一気に地面に落下するのです。その瞬間、会場は大きな歓声と熱気に包まれます。

ジョウゴに向かって下から火のついた松明が次々と投げ上げられる(筆者撮影)

ジョウゴに向かって下から火のついた松明が次々と投げ上げられる(筆者撮影)

 私は今年、初めて「かりがね祭り」を見学したのですが、その大迫力と幻想的な炎の饗宴には、心底圧倒されました。そして、この地を今も守っている「奉仕と犠牲」の歴史と「人柱伝説」に改めて心を揺さぶられたのでした。

江戸時代初期、親子三代、50年以上かけて築かれた「雁堤」

 かりがね祭りの会場前を流れる富士川は、山形県の最上川、熊本県の球磨川とならび、日本三大急流と呼ばれ、その昔から幾度となく大きな氾濫を繰り返し、そこに住む人々の生活を脅かしてきました。

 富士川の氾濫をなんとか食い止めるため、江戸時代に入って間もない1621年、駿河国富士郡に居を構える古郡重高が、突堤づくりに着手します。そして、大規模な治水工事は二代目の重政に引き継がれ、新田開発なども行われましたが、富士川の東岸はそれでも氾濫に見舞われていました。

 重政の死後、この治水工事は三代目の重年に引き継がれます。重年は氾濫時に水流を留めるため、1667年、逆L字型堤防の築造に着手します。そして難工事の末、7年後の1674年、ついに雁金堤を完成させたのです。

 親子三代、完成までに53年という、まさに気の遠くなるような歳月をかけての偉業でした。

今も伝わる「人柱伝説」

 古郡氏による大掛かりな治水工事によって、富士川の東岸は「加島五千石の米どころ」ともいわれるほど豊かな土地に生まれ変わりました。しかし、それでも洪水をなくすことはできませんでした。逆に、西岸の地域では堤防がたびたび決壊して被害が増加するようになり、新たな治水工事は困難を極めていたのです。

 そんなとき、「人柱を立てて富士川の氾濫を鎮めよう」という案が出されます。

 富士市の公式サイト内「古郡三代と雁堤」の中には、「人柱伝説」として、次の解説が掲載されています。

<17世紀後半の寛文年間のころ、岩淵の渡しから富士川を渡ってきた巡礼姿の老夫婦がいました。夫婦が松岡の代官屋敷の前を通ると、役人に行く手をさえぎられてしまいました。

 役人によると、富士川の氾濫を防ぐために堤防を築いているが、たびたび決壊して工事が進まないので、富士川を渡ってくる千人目の者を人柱に立てて河流を鎮めようと皆で決め、その日から千人目がこの老夫婦に当たったのだといいます。

 これを聞いた夫婦は、東国巡礼を終えたら人柱になると約束し、3ヶ月後に戻ってきました。夫は白木の棺に入れられ、堤が最も破れやすい箇所の地中に埋められました。

 夫は、自分が生きている間は地中から鉦を鳴らし念仏を唱え、それらが絶えたときは死んでいるだろうと言い残していましたが、21日間地中から鉦の音が響いていたといいます>

 雁堤の法面には、人柱をご祭神とした護所神社があり、今も地域住民によって祭礼が行われているといいます。

今も富士市を水害から守っている雁堤

 奇しくも、「かりがね祭り」の1週間前、台風15号の影響で静岡市清水区の巴川が氾濫し、大きな被害を出しました。

 3年ぶりに開催された「かりがね祭り」の開会式に出席した富士市長の小長井義正氏は、隣に位置する市として、給水車やトイレ・トレーラー、被災ごみを収集するパッカー車の派遣など、全力で災害支援に当たっていることを報告。そして、雁堤について、

「今回の災害は、富士市としても決して他人事ではなく、潤井川や富士川の水位が上昇しました。しかし、雁堤は今も現役で治水対策に大いに貢献しており、私たちに安心をもたらす施設となっています。改めて古郡氏三代の偉業、そして、この地域の人たちが力を合わせて築造されたことに感謝を申し上げたい」

 と述べました。

 佐野鼎は1829年、駿河国(現在の富士市)に生まれてから16歳頃まで、この地で育ちました。洪水の多い地域で高度な数学を学ぶ若者が数多く輩出された経緯については、本連載の59回目<水害多発地域で必須の和算、開成学園創立者・佐野鼎も学んで磨いた理系の素養>(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72028)でもお伝えした通りです。

 そしておそらく、鼎自身も少年の頃、雁堤へは何度も足を運び、古郡三代の偉業や歴史、人柱伝説についても、大人たちから話を聞いていたと思われます。

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

『開成をつくった男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)では、雁堤での少年時代も描きました。故郷の富士に脈々と伝わる「かりがね魂」は、佐野鼎のその後の人生や価値観に多大な影響を与えたことでしょう。

「かりがね祭り」は、富士川の氾濫や築堤に伴う難工事での犠牲者、人柱となった命への感謝と弔い、そして、かりがね堤の歴史と古郡三代の偉業を後世に継承するために行われるお祭りです。毎年10月の第1土曜日に開催されますので、ぜひ一度ご覧ください。

*10月は富士市で3回にわたって『佐野鼎講演会』が開催されています。第2回目、10月15日(土)は13時半より、『ラ・ホール富士』(静岡県富士市中央町2丁目7番11号)にて柳原三佳が佐野鼎の49年間の人生を辿りながら、その人となりと足跡についてお話しする予定です。

<講演会情報> 佐野鼎(さのかなえ)講演会の参加者を募集します | 静岡県富士市 (https://www.city.fuji.shizuoka.jp/kyouiku/c0402/rn2ola0000046hei.html)

 

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯

(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?

(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身

(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち

(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記

(第46回)アメリカ大統領に初めて謁見した日本人は誰か

(第47回)江戸末期、米国で初めて将棋を指してみせた日本人

(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志

(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目

(第50回)渋沢栄一と上野に散った彰義隊、その意外な関係

(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由

(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析

(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇

(第54回)『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた

(第55回)「開成」創立者・佐野鼎の顕彰碑が富士市に建立

(第56回)「餅は最上の保存食」幕末、黒船の甲板で餅を焼いた日本人がいた

(第57回)遣欧使節の福沢諭吉や佐野鼎にシンガポールで教育の重要性説いた漂流日本人

(第58回)東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由

(第59回)水害多発地域で必須の和算、開成学園創立者・佐野鼎も学んで磨いた理系の素養