水害多発地域で必須の和算、開成学園創立者・佐野鼎も学んで磨いた理系の素養
『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第59回)
2022.9.29(木)
台風15号の影響で「線状降水帯」が発生し、記録的な大雨に見舞われた静岡県。清水区では巴(ともえ)川が氾濫し、周辺の住宅や店舗に大きな浸水被害が出ました。被災地では現在も復旧や片付けの作業に追われているといいます。
治水工事が進んでいるはずの現代においても、自然の猛威に太刀打ちできない現実……。豪雨のたびに映し出される過酷な被害の現状には唖然とします。
しかし、歴史を振り返れば、人々は数えきれないほどの自然災害に打ちのめされながらも、懸命に復活をとげてきたのです。
繰り返す水害が高度な数学を根付かせた
実はその昔、水害の多い地域では「和算塾」が栄え、多数の優秀な人材を生み出していたことをご存じでしょうか。こうした土地では、流された田畑や領地の正確な測量のほか、堤防や土手、水路の建設などが必須でした。そのためには、高度な数学の知識を身に付けた人材を育成する必要があったのです。
本連載の主人公である「開成をつくった男・佐野鼎(さのかなえ)」も、そんな一人でした。
佐野鼎は幕末の1829年、現在の静岡県富士市で生まれました。この地域を流れる富士川は日本屈指の急流で、大雨が降るとたびたび氾濫を起こし、周辺に被害を及ぼしてきました。
佐野家の本家筋が代官であったことから、佐野鼎も元服(15歳)の頃には、代数や整数方程式、解析学、幾何学などを身に付けていたと思われます。
佐野鼎と親しかった赤松小三郎が同時期に使用していた和算書(上田市立博物館蔵/筆者撮影)
佐野鼎は理系人間だった
16才で江戸へ出て、蘭学や西洋砲術を学び、長崎海軍伝習所の一期生として航海術も学んだ佐野鼎は、1860年(明治維新の8年前)、「万延元年遣米使節」の従者として、アメリカの軍艦・ポーハタン号に乗船して江戸を出航し、太平洋を横断してアメリカへ向かいました。一行は約9カ月かけて地球を一周し、佐野鼎はその行程を『訪米日記』に詳細に書き残していたのです。
今年8月、「万延元年遣米使節子孫の会」の主催で、佐野鼎研究会世話人の内藤徹雄氏(共栄大学名誉教授)による講演会が開催されました。
演題は、「佐野鼎遺稿 『万延元年訪米日記』を読む」。佐野鼎の日記を現代語訳した内藤氏は、今回の講演の中で、「佐野は算術や化学の知識が豊富な理系人間であった」とし、佐野鼎の人物像について、次のように分析しました。
(1)頭脳明晰、ち密で詳細な説明
(2)英語で米国人と熱心に交流
(3)教育や学校に関心を示す
(4)あたたかな人柄は随所に散見される
(5)豊かな人間関係
そこで今回は、内藤氏の講演からごく一部ではありますが訪米日記(現代語訳)を抜粋し、富士山の麓で培われた彼の高い学識や人となりに迫ってみたいと思います。
数字を緻密にとらえていた佐野鼎の観察眼
まず、佐野鼎の日記を読んで驚かされるのは、数字に基づいた緻密な記述です。たとえば、1860年1月18日、初めて米軍艦・ポーハタン号に乗り込んだ佐野は、具体的な寸法を入れながら、巨大な艦体とそこに備えられている大砲等について、次のように記しています。
<この船の長さは280フィート(85m)、幅は45フィート(14m)、喫水の深さは28フィート(8.5m)で、口径7寸2分2厘(22cm)の鋳鉄製の大砲10門と、口径9寸2分(28cm)の大砲1門、及び口径5寸(15cm)の銅製の榴弾砲4門を備えている。蒸気機関で両舷の車輪を回して進むが、その力は800馬力で船の積載重量は1万5624石積み(2840トン)、米国人の乗組員は400人余である>
太平洋を航海中、ポーハタン号の甲板上で初めて目にした「オーロラ」については、
<今夜午前2時頃、北の方角に月が昇るときの様子に似たものを見つけ1時間ばかり見ていた。翌日、米国人に質問すると、ノヲゼルンライト(北方の光=オーロラ)であるとの回答があった。この北閃は地球を取り囲む空気中にエレキテルと名付けられたものがあり、これが電光となってマグネイトの電線を走り回るもので、大変神秘的な流動体である>
と記しており、地球の磁力線についての知識もすでに持ち合わせていたようです。
ちなみに、太平洋上でオーロラの説明を授けてくれた「米国人」とは、アメリカ人牧師のヘンリー・ウッドという人物でした。彼はポーハタン号の中で、佐野鼎を含む数名の日本人従者たちに英語を教えた人物として知られており、佐野鼎は加賀藩の友人に宛てた手紙の中で、次のように知らせていました。
<ヘンリー・ウッド氏、毎日朝9~12時と、午後4~5時まで英語を学んでいる>
使節団の中でも特に熱心に英語を学んだという佐野鼎は、ウッド氏の特訓を受けたおかげで、ワシントンやフィラデルフィア、ニューヨークの街を訪問した際、現地の人々と積極的に英語で会話を行ったようです。
他者を思いやるあたたかな人柄
頭脳明晰な理系人間としての顔を持つ佐野鼎ですが、その一方で、「弱者に対する深い同情心を持つ、大変優しい性格であった」と内藤氏は推測しています。
たとえば、ポーハタン号がパナマ港に到着する直前、佐野はこのような思いを記していました。
<明日はパナマ港に到着するので、乗り組みの米国人は別れを惜しみ、夜に日本人の部屋に来てねんごろに別れを告げた。乗り組みの米国人はせっかく故郷近くに戻っても妻子に会うこともできないで、再び別の場所に向かうという。彼らの心境を察すると気の毒である>
約2カ月の航海で、アメリカ人の乗組員たちともすっかり親しく打ち解け、長い間家族に会えない彼らに同情する様子が伝わってきます。
航海中、アメリカ人乗組員の死にふれたときには、こうも記していました。
<彼らの妻や子供はきっと故郷で彼の帰国を待っていると思うが、むなしく海中に葬られるとは悲しみに耐えない。日本人の中にも先日病気に罹った者がいたが、病状はよくないので、今日のことは内密にして彼の耳には入れないようにした>
亡くなったアメリカ人の家族の哀しみに思いを馳せながら、病に伏せる日本人使節への気遣いも忘れておらず、その人柄がにじみ出ています。
また、アメリカで貧院や孤児院を見学した際には、次のような一文を記録していました。
<市の東部に貧院がある。貧しい人は皆ここに入ってそれぞれの仕事をしているので、市内では乞食を見かけない。またこの近くに孤児院があり、幼いときに父母を亡くした者は皆この施設にいる>
アメリカでの大歓迎を受けて困惑する場面も
使節団一行がワシントンに到着した直後には、思わず苦笑してしまう、こんな記述もありました。
<部屋の窓から外を見ると、ホテルの周囲には見物人が群集していた。この国で初めて知り合いになるときは、互いに右の手で握り合う。また女子の挨拶では口を吸うこともあるが、日本の風俗から考えると、行うことはもちろん、見るのも耐え難いものである>
たしかに、武士として江戸時代を生きていた彼らから見れば、女性による握手やキッスを直視することは耐え難いものだったのでしょう。
さらに、ニューヨークで大勢の市民から受けた大歓迎の様子について、佐野は「江戸の祭礼」を例に挙げ、こんなユニークな表現でその賑わいを表していました。
<街中の商店は店を閉じて、日の丸と米国国旗を飾り、「ウェルカム・ジャパニーズ・エンバシィー」と大書して、老若男女を問わず白いハンカチを振って歓呼して迎えてくれた。まるで江戸の山王権現や神田明神の祭礼で練りものを見物するようであった。夕暮れ間近にブロードウェイ街にある市中第一の壮麗なメトロポリタン・ホテルに到着した>
内藤氏は現代語に訳した佐野鼎の日記を次々紹介しながら、日米の風俗の違いのほか、初めての蒸気機関車、スミソニアン博物館、ホワイトハウス、選挙制度への驚きなどについて解説。聴講者は1時間半の講演に引き込まれながら、あっという間に日記の最終ページに辿り着きました。
以下は、江戸を発ってから約9カ月、横浜港を経由して品川沖で碇(いかり)をおろした9月29日の記述です。
<朝8時頃宮田を出帆した。四方の景色を眺めると、朝日が昇り、雪を冠した富士山に照り映えて大変鮮やかな光景であった。11時頃横浜港に入り、ここで3~4名の役付と江戸に飛脚を依頼する者が上陸した。午後、江戸湾に向けて出帆し、午後2時頃に品川港の3海里(5.5km)程沖に碇を投じた>
『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)
雄大な富士山の麓で生まれ育った佐野鼎は、朝日に輝く日本一の故郷の山の姿を見たとき、何を思ったでしょう。この一文から、長い航海を終え、無事に帰国できた喜びと安堵感が伝わってくるような気がしました。
10月は富士市で佐野鼎講演会開催
さて、西洋砲術の専門家として幕末を生きた佐野鼎が、その後「人を仕立てること=教育」の大切さに目覚め、明治4年に開成学園の前身である「共立学校」を創立したことは、『開成をつくった男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)に記したとおりです。
2021年、佐野鼎の出身地である富士市と開成学園は、協力体制を構築するため、連携協定を締結。2022年からは教科書の副読本で佐野鼎のことが紹介されています。また、協定取り組みの一環として富士市では、令和4年10月1日、15日、29日(各回とも土曜日)の全3回にわたって、佐野鼎について理解を深めるための講演会が開催される予定です。
JR新富士駅そばに建立された佐野鼎顕彰碑(筆者撮影)
佐野鼎の『訪米日記』の内容もさまざまな角度から紹介される予定です。詳しくは、富士市のサイトをご覧ください。
●佐野鼎(さのかなえ)講演会の参加者を募集します | 静岡県富士市(https://www.city.fuji.shizuoka.jp/kyouiku/c0402/rn2ola0000046hei.html)
<講演会日程>
●第1回 10月1日(土曜日)
駿河国富士郡が輩出した幕末・維新の賢人佐野鼎と共立学校(開成学園の前身)の創設 / 講師:野水勉(開成中学校・高等学校校長)
●第2回 10月15日(土曜日)
幕末に地球を2周! 富士が生んだ偉人・佐野鼎 49年の足跡と人物像を探る /講師:柳原三佳(ジャーナリスト、ノンフィクション作家)
●第3回 10月29日(土曜日)
万延元年遣米使節とその一員富士水戸島出身の佐野鼎 / 講師:松平和也(佐野鼎研究会代表)
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記
(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎
(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味
(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句
(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点
(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂
(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した
(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命
(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記
(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」
(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック
(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅
(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士
(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師
(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父
(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」
(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記
(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯
(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?
(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身
(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち
(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記
(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志
(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目
(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由
(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析
(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇
(第54回)『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた
(第56回)「餅は最上の保存食」幕末、黒船の甲板で餅を焼いた日本人がいた