大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇
『開成をつくった男、佐野鼎』を辿る旅(第53回)
2021.6.19(土)
NHKの大河ドラマ『青天を衝け』。6月13日に放送された第18回目「一橋の懐」は、明治維新の4年前にあたる元治元年(1864)から翌年の出来事が描かれていました。
NHKのサイトにある、この回の「あらすじ」から一部抜粋してみます。
<篤太夫(吉沢 亮)は、天狗党(てんぐとう)討伐のため慶喜(草彅 剛)とともに京をたつ。一方、成一郎(高良健吾)は、慶喜からの密書を耕雲斎(津田寛治)に届ける。耕雲斎は降伏を決めるが、悲しい運命が待ち受けていた>
武田耕雲斎が加賀藩との話し合いを重ね降伏した敦賀・新保宿陣屋(筆者撮影)
実は、ドラマでは触れられませんでしたが、武田耕雲斎率いる水戸の天狗党が降伏を決めるとき、敦賀の新保宿で耕雲斎と直接やり取りを行ったのは、加賀藩の藩士たちでした。
その渦中に、本連載の主人公である『開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)』(1829~1877)がいたことは、あまり知られていません。
佐野鼎は、1860年に「万延元年遣米使節」、1862年に「文久遣欧使節」の随員として、すでにアメリカとヨーロッパを視察していた数少ない日本人(※両方に参加したのは6名のみ)の中の一人でした。今回は、そんな佐野鼎自身が、天狗党の征伐に出陣する前日に記した一編の漢詩を紐解きながら、その複雑な心境を読み解いてみようと思います。
初めての実戦を前に書き記した一編の漢詩
佐野鼎と「天狗党」との接点については、以前、本連載の25回目で取り上げました。
「尊王攘夷」を掲げていた水戸の「天狗党」は、故人となった藩主・徳川斉昭の子である一橋慶喜になんとかこの志を支持してもらおうと、1864年10月末に水戸を発ち、慶喜のいる京都を目指します。
しかし、これを知った幕府は、何とか天狗党の動きを食い止めようと、加賀藩をはじめとする各藩に天狗党の鎮圧を命じたのです。
当時、西洋砲術師範として加賀藩に召し抱えられていた佐野鼎は、当然のことながらこの任務を藩から命ぜられ、1864年12月、大雪が降る敦賀で、その対応に当たることになったのです。
佐野鼎が出陣する際、親友の加賀藩士・宇野直作宛てに書き残したのが『臨発作(発するに臨む作)』と題した漢詩です。自分に万一のことがあったときの「遺書」的な意味合いもあったのかもしれません。
ちなみに宇野直作は、佐野鼎の異母妹の夫、つまり義弟にあたり、後に開成学園の前身となる「共立学校」を共に立ち上げた人物でもあります。
開成学園に保管されている佐野鼎直筆の漢詩。1864年12月16日、天狗党鎮圧のための出陣前日に書かれた(『佐野鼎と共立学校 -開成の黎明―』より引用)
『臨発作』(発するに臨む作)
扼腕切歯 意奮然 (腕を握り締め 歯を食いしばり)
雙刀響繋腰間 (腰に差した二つの刀が響き合う)
好将一死比毛羽 (好し一死をもって毛羽に比せん)
蹴破晏安姑息眠 (一時の間に合わせの、穏やかな安らぎを蹴破ろう)
漢詩『臨発作』に込められた佐野鼎の思いとは
では、この漢詩にはどのような意味が込められているのでしょうか。
漢詩に造詣が深く、万延元年遣米使節の一員であった加藤素毛の日記など数多くの古文書の翻訳を手掛けた著者でもある片田早苗氏は、こう分析します。
「この漢詩には自分の死をも覚悟するような記述が見られます。おそらく、佐野鼎は人生初の実戦となる天狗党征伐への出陣に大変な覚悟をもって臨んだことでしょう。一方、すでに欧米の進んだ文明や圧倒的な軍事力を熟知していた佐野鼎は、この漢詩の中で、世情にも心を傾ける余裕を見せているように思います」
片田氏は、この詩のポイントは、「姑息」(一時の間に合わせ)のような、この国の眠りを打破したいという「開国」への考え方が込められていることだと言います。
「長い年月にわたって鎖国政策を続け、日本国民が西洋列強の本当の軍事力の強さを知らないまま攘夷を叫ぶのを、佐野鼎は『扼腕切歯』という言葉で表現しています。まさに腹立たしく感じ、天狗党の志士たちの無謀さを嘆いていました。しかし、日本人としての忠義、武士としての志は大切にしたかったのでしょう。それだけに、この機会に欧米諸国の侵略から日本を守るにはどんな方策があるのか、国全体が危機感を持つことを望んだとも思われるのです」
「攘夷」の実行を叫んでも、もはや諸外国に付け込まれ、日本が敗北するのは明白でした。佐野鼎から見れば、なんとしてもその時代遅れの考え方を阻止させなければならなかったのでしょう。
征伐相手の天狗党、もはや心身ともに疲弊していた
しかし、この漢詩を記し、命を懸けて出兵した佐野鼎は、実際に天狗党の姿を目の当たりにし、愕然とします。
連載25回目の記事にも書きましたが、彼らは真冬だというのに、粗末な着物を身に着け、足元にはぼろぼろになった藁の履物、凍える手には端切れを巻いただけだったのです。
このような軽装で鉄砲や大砲といった武器を運びながら、雪が積もった険しい山を越えてきたのですから、疲弊は極限に達していたのでしょう。肺炎などの重病に倒れる者も続出していました。
なにより、自分たちが頼りにしようとした一橋慶喜が、征伐を指示した本人だと聞いた天狗党一行は、失意のどん底にいました。すでに、幕府軍は包囲しており、もはや闘いなど続けられる状況にないことは、誰の目にも明らかでした。
雪が降り積もる新保宿で、すべての武器を差し出し、降伏を申し出た武田耕雲斎。士道を重んじた加賀藩が丁重に対応し、藩として食料や衣類、酒、菓子などの嗜好品に至るまで提供し、厚遇したというエピソードは、『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)の、「天狗無惨」という章にも記しています。
武田耕雲斎像(筆者撮影)
「天狗党よ許せ」
しかし、年が明けて1月29日、幕府軍からの命により浪士全員の身柄の引渡しを加賀藩から受けたのは、彦根藩でした。
彦根藩はかつて、主君である井伊直弼を桜田門外で暗殺されています。そのときに関わったのが水戸藩です。もちろん、加賀藩は「士道を以て遇するべき」と、幕府に懇願していましたが、その後の処遇は火を見るよりも明らかでした。
結果的に、352人が敦賀で斬首され、残った胴体は5カ所に掘られた穴に次々と投げ捨てられ、かろうじて死罪を免れた者も137人が島流しに、その他は水戸藩渡しとなったそうです。
新保宿で武田耕雲斎と直接交渉を行った加賀藩の永原甚七郎は、その悲報を聞き、「天狗党よ許せ・・・、天狗党よ許せ・・・」と声を上げて泣いたという話も伝わっています。
水戸烈士慰霊碑(筆者撮影)
永原は佐野鼎の上司にあたる人物です。おそらく、彼の胸の中にも、このときの辛い体験が強く刻まれたことでしょう。
あの冬の日から157年・・・、佐野鼎が天狗党征伐の前にしたためた直筆の漢詩『臨発作』は、今も開成学園に大切に保管されています。
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記
(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎
(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味
(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句
(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点
(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂
(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した
(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命
(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記
(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」
(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック
(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅
(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士
(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師
(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父
(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」
(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記
(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯
(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?
(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身
(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち
(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記
(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志
(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目