ジャーナリスト・ノンフィクション作家 柳原三佳オフィシャルサイトHP

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直系子孫宅から佐野鼎の遺品が大量発見!中にはパリで撮った若き福澤諭吉の写真も、果たして2人の接点とは?

『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第68回)

2025.2.21(金)

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佐野鼎の洋装写真も

 先月、「北國新聞(2025.1.12)に、以下のような見出しで大きな記事が掲載されました。

〈幕末の加賀藩砲術師範 佐野鼎の遺品あった 子孫宅に文書、写真数十点〉

 紙面には明治政府(兵部省)に勤務していた頃の、本連載の主人公である「開成をつくった男 佐野鼎(さのかなえ)」の洋装写真のほか、加賀藩が幕末に開いた西洋式軍事学校「壮猶館(そうゆうかん)」に佐野が師範として招かれた当時の書面(1864年)が、カラーで掲載されていました。

明治2年頃に撮影か? 画像が薄れてしまい見えづらいが、初めて出てきた佐野鼎の洋装写真(増見寿子氏所蔵)

明治2年頃に撮影か? 画像が薄れてしまい見えづらいが、初めて出てきた佐野鼎の洋装写真(増見寿子氏所蔵)

 これらの遺品は、佐野鼎のひ孫・佐野公治さんの京都のご自宅で長年保管されていました。昨年の秋、偶然にも大量に出てきたことから、同じくひ孫で、千葉市在住の増見寿子さんが受け継ぎ、開成学園OBを中心とする「佐野鼎研究会」で調査、研究を進めていくことになったのです。

 佐野鼎の直系ご子孫については、その消息がこの50年ほどわからないままでした。しかし、2023年の秋、奇跡的に対面が叶い、それをきっかけに玄孫さんをはじめご子孫との交流が生まれ、表に出ていなかった数々の古写真や書面が初めて日の目を見ることになったのです。

佐野鼎宛てに出された安政時代の書状。今回発掘された遺品の中で最も古い加賀藩時代のもの。現在解読中(増見寿子氏所蔵)

佐野鼎宛てに出された安政時代の書状。今回発掘された遺品の中で最も古い加賀藩時代のもの。現在解読中(増見寿子氏所蔵)

「北國新聞」にここに至るまでの経緯が取り上げられていましたので、一部抜粋します。

〈遺品と佐野鼎研究会を結び付けたのが、母方の先祖に鼎を持つノンフィクション作家の柳原三佳さん。寿子さんの兄でマレーシアに移住した佐野公明さん(2024年死去)が一時帰国した23年、柳原さんの著書「開成をつくった男、佐野鼎」を知って、出版社を通じて面識のない柳原さんと連絡を取ったのがきっかけだった。〉

 佐野鼎のひ孫・佐野公明さんとの出会いについては、本連載の第62回〈消息がつかめなかった「開成の創始者」佐野鼎の“ひ孫”とついに遭遇  『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅〉でも取り上げました。

 残念なことに公明さんは、初対面から8カ月後の2024年5月、ご病気のため85歳でお亡くなりになりました。今振り返れば、まさにぎりぎりのタイミングだったわけですが、この出会いをきっかけに、佐野鼎の子孫の方々と交流が生まれ、今回の遺品発掘へとつながったことは、まさに偶然の積み重ねが生んだ幸運だと言えるでしょう。

2024年11月、都内で開かれた佐野鼎研究会にて、会員に公開された佐野鼎の遺品の数々(筆者撮影)

2024年11月、都内で開かれた佐野鼎研究会にて、会員に公開された佐野鼎の遺品の数々(筆者撮影)

「福澤諭吉政範 廿九才」の写真

 では、「北國新聞」で取り上げられた肖像写真や書状のほかに、今回どのようなものが見つかったのか……、今回はその中から1枚の写真をご紹介しましょう。なんとなく見たことがあるような?

 そう、若かりし頃の福澤諭吉です。

1862年、遣欧使節として訪れた際、パリの写真館で撮影された福澤諭吉の肖像写真(増見寿子氏所蔵)

1862年、遣欧使節として訪れた際、パリの写真館で撮影された福澤諭吉の肖像写真(増見寿子氏所蔵)

上記写真の裏面

 写真の裏には、『福澤諭吉政範 廿九才(29歳)』と書かれています。この特徴ある筆文字は、佐野鼎本人によるものでしょうか。

 また、裏書の上部には下とは異なる筆跡で、「文久二年十二月出発ノ使節一行」と書かれています。福澤諭吉は1862年、文久遣欧使節*の一員として、佐野鼎と共に欧州を訪問しながら地球を一周していたのです。

* 1862年1月、竹内下野守を正使、松平石見守を副使、京極能登守を目付としてイギリス、フランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルへ派遣された36名の幕府使節団。主目的は、①開港・開市の延期の確約、②欧州事情の視察、③ロシアとの樺太境界を定めること、だった。

1860年、別の船でアメリカへ渡った佐野鼎と福澤諭吉

 この2人は、ともに歴史の大きな転換点で西欧諸国から大きな刺激を受け、その後の人生を「教育」に捧げたという共通点を持っています。

 まず、佐野鼎は1860年、万延元年遣米使節の随員としてアメリカを訪問し、米軍艦・ポーハタン号に乗ってアメリカを目指しました。福澤諭吉はこのとき、勝海舟らとともに護衛船として随行した咸臨丸に乗船し、大しけの太平洋を横断します。そして、船を損傷させながらもアメリカのサンフランシスコになんとか寄港し、船の修理完了後、そのまま日本に引き返しました。

 佐野鼎が書き記した『訪米日記』には、咸臨丸のメンバーとサンフランシスコで対面する場面も記録されていますが、彼らは幕府としては初となる外国への航海で、互いの無事を喜び合ったと思われます。

 そして1862年、佐野鼎は遣欧使節の随員としてイギリス軍艦・オーディン号に乗船し、今度は、インド洋、紅海、地中海を経て、約半年にわたって、ヨーロッパ諸国を訪問。福澤諭吉も「幕府外国方、翻訳方」として、この使節団に随行していました。佐野鼎のほうは身分が低かったため、使節団の中での肩書はあくまでも「賄い方」でした。

 ここからは想像なのですが、互いに蘭学を修め、新たに英語を学び始めていた35歳の佐野鼎と29歳の福澤諭吉は、長い旅の間、学者としてさまざまな交流をし、お互いに刺激を受け合っていたのではないかと思われるのです。

維新後に交わりがなかったはずがない佐野と諭吉

 さて、明治維新後の2人の生きざまには多くの共通項があります。

 佐野鼎は明治4年、政府からお茶の水の土地(江戸時代は大名屋敷)の払い下げを受け、「開成学園」の前身となる「共立学校」を創立します。この学校では外国人教師を高給で雇い入れ、男女、身分を問わず、正則英語(ネイティブな英語)を生徒たちに教えました。

 一方、福澤諭吉も明治5年、東京・三田にあった島原藩の屋敷の払い下げを受け、この地に本格的な私学校を立ち上げます。それがご存じのとおり、「慶應義塾」です。福澤もまた、アメリカ風の教育カリキュラムを取り入れていました。

 こうして2人は、幕末に経験した、当時としては極めて稀有な海外渡航経験を活かし、これまでの日本にはなかった「新しい教育」の道を志しながら、かたちにしていったのです。

 ところが、佐野鼎、福澤諭吉、それぞれに関する史料を検索して調査をしても、2人の交流を裏付けるような具体的な記述が見当たらないのです。特に、福澤は66歳で亡くなるまでに数多くの著作を残していますが、その中に佐野鼎の名前が一切出てこないのはとても不思議でした。

『開成をつくった男、佐野鼎』

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

 それでも私は、この2人は新しい教育のパイオニアとして、さまざまな意見交換を行っていたはずだ、という推論を立て、『開成をつくった男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)の中に福澤諭吉と佐野鼎が会話する場面を挿入しました。

【参照記事】遣欧使節の福沢諭吉や佐野鼎にシンガポールで教育の重要性説いた漂流日本人 『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第57回)

 1860年の遣米使節に随行した際、すでにフィラデルフィアでペンシルべニア大学を視察していた佐野鼎。福澤諭吉はきっと、そんな佐野の知見と、学校設立に向けての考え方や行動を参考にしていたのではないか、そして佐野鼎も、自身より6つ若い福澤を応援していたのではないか……、そんな思いが巡るのです。

 それだけに、今回、佐野鼎の遺品から福澤諭吉の写真が出てきたことは、私にとって大きな出来事でした。佐野は、福澤の写真をどのような思いで保管していたのか。今回の出来事をきっかけに、2人の交流を裏付ける、さらなる史料が発掘されることを期待したいと思います。

 なお、2025年2月24日(祝)午後1時半より、東金文化会館において、柳原三佳が関寛斎と佐野鼎について講演会を行います。佐野鼎に関心を持たれた方はぜひ足を運んでみてください。入場は無料です。

 

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯

(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?

(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身

(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち

(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記

(第46回)アメリカ大統領に初めて謁見した日本人は誰か

(第47回)江戸末期、米国で初めて将棋を指してみせた日本人

(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志

(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目

(第50回)渋沢栄一と上野に散った彰義隊、その意外な関係

(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由

(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析

(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇

(第54回)『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた

(第55回)「開成」創立者・佐野鼎の顕彰碑が富士市に建立

(第56回)「餅は最上の保存食」幕末、黒船の甲板で餅を焼いた日本人がいた

(第57回)遣欧使節の福沢諭吉や佐野鼎にシンガポールで教育の重要性説いた漂流日本人

(第58回)東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由

(第59回)水害多発地域で必須の和算、開成学園創立者・佐野鼎も学んで磨いた理系の素養

(第60回)暴れ川・富士川に残る「人柱伝説」と暗闇に投げ松明が舞う「かりがね祭り」

(第61回) 横須賀基地に残る幕臣・小栗忠順の巨大な功績、なのに最期は悲劇的な死が

(第62回) 消息がつかめなかった「開成の創始者」佐野鼎の“ひ孫”とついに遭遇

(第63回) 50万人の群衆!164年前の米国人が熱狂、訪米した「サムライ」の歓迎特大パレード

(第64回) パリでナポレオン3世に謁見した幕末のサムライたち、なぜ正装で臨まなかったか

(第65回) 幕末に米軍艦でアメリカを目指したサムライたち、洋上で目撃した「オーロラ」をどう記録したか

(第66回) 幕末に渡米したサムライが書いた、異国の鉄道についてのイラスト入り詳細レポート

(第67回) 164年前、日本人として初めてアメリカ大統領に会ったサムライたちは「外交贈答品」として何を選んだか