164年前、日本人として初めてアメリカ大統領に会ったサムライたちは「外交贈答品」として何を選んだか
『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第67回)
2024.11.7(木)
共和党のドナルド・トランプ前大統領(78)が、第47代アメリカ大統領に当選しました。11月11日に第2次石破内閣を発足した石破茂首相は、この日の夜に行われた記者会見で、「トランプ次期大統領となるべく早いタイミングで直接会談する機会をもちたい」と発言。日程は未定ですが、この先の日米関係の行方に関心が高まっています。
「外交上の贈り物」はアート
トランプ氏との会談……、と聞いて思い出すのは、8年前、ヒラリー・クリントン氏を破り、第45代アメリカ大統領に当選した直後の「ゴルフ外交」エピソードです。当時の安倍晋三首相は2016年11月17日、早くもニューヨークに駆け付け、ゴルフ好きで知られるトランプ氏に1本50万円する「黄金のドライバー」をプレゼント。トランプ氏はとても喜び、その後の会談は予定の2倍にあたる約90分間にわたっておこなわれたそうで、当時、大きな話題になりました。
さかのぼれば、安倍氏の祖父である岸信介元首相も1957年に訪米した際、当時のドワイト・D・アイゼンハワー大統領(第34代)と一緒にゴルフをして親交を深めたそうです。「ゴルフ外交」は、先々代から引き継がれていたということですね。
以下の記事にこんな一説がありました。
(外部サイト)外交で重要な贈り物、意外な事実も(AFPBB News:2014年12月25日)
『米国務省のある職員はAFPに対し、「外交上の贈り物は長い歴史を持つアートであり、多くの指導者や国々から非常に重要に受け取られるため、われわれはあらゆる状況に備えておかなければならない」と語った』
なるほど、「長い歴史を持つアート」という言葉は、まさにその通りだと感じます。
日本人が初めて会った米大統領は第15代ブキャナン大統領
日本人が初めてホワイトハウスでアメリカ大統領に謁見したのは、今をさかのぼること164年前、1860年のことでした。
「万延元年遣米使節」と呼ばれている一行の目的は、日米修好通商条約の批准書を大統領と交わすことでした。幕府から命を受けた正使・新見正興(しんみまさおき)、副使・村垣範正(むらがきのりまさ)、目付・小栗忠順(おぐりただまさ)を正規の代表とする総勢77名の遣米使節団は、江戸まで迎えに来たアメリカの軍艦「ポーハタン号」に乗り込んで太平洋を渡り、パナマ鉄道や他の軍艦を乗り継ぎながら、アメリカの首都であるワシントンへと向かったのです。
本連載の主人公である「開成をつくった男・佐野鼎(かなえ)」もこの使節団に従者の一人として参加し、約9カ月間かけて地球を一周。このとき書き記していた詳細な『訪米日記』の内容は、本連載でもたびたび紹介してきました。
アメリカの第15代大統領ジェームズ・ブキャナン(From Brady daguerreotype (Mathew Brady) (1822-1896), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
以下は日本の使節団がホワイトハウスで第15代のジェームズ・ブキャナン大統領に謁見する様子が描かれたイラストです。
ホワイトハウスでブキャナン大統領に謁見する使節団の面々
アメリカの人々は、初めて見る東洋のサムライたちの姿に歓喜し、ワシントン、ニューヨークなどでは歓迎のパレ―ドが大々的に催されたことが記録されています。
日本人使節一行がホワイトハウスを訪れた日の様子を伝えるアメリカの新聞に掲載された挿絵。『万延元年のアメリカ報告』(宮永孝著)より引用
米国への初の公式訪問時に贈ったプレゼントは
では、歴史上初となるアメリカへの公式訪問時、幕府は「外交贈答品」としてどのような品を用意したのでしょうか。
実はこの秋、私は「万延元年遣米使節子孫の会」のメンバーとともに、万延元年遣米使節が持参した贈答品の中の現物を間近で見ることができました。それが「富士飛鶴図(ふじひかくず)」という掛け軸です。
1860年に遣米使節が訪米したとき、アメリカ大統領への贈答品として持参した掛け軸「富士飛鶴図」/静岡県富士山世界遺産センター所蔵
雪化粧した富士山を背景に、大きな羽を広げて美しく舞う鶴たち。手前には景勝「三保の松原」が描かれ、まさに、日本を象徴する崇高でめでたい題材が絶妙の配置で盛り込まれています。
作者は狩野派の絵師で、江戸城本丸・西の丸の障壁画制作などにも参加した狩野董川中信(かのうとうせんなかのぶ)。その絵の素晴らしさは言うまでもありませんが、表装の裂地には金糸などが織り込まれた「金襴」と呼ばれる豪華な織物が使われ、軸先には打ち出の小槌などの繊細な蒔絵が施されており、その格式の高さには思わずため息が出るほどでした。
ワシントンのウィラードホテル応接室で、米国人が贈答品の撮影及び写生をする様子。手前に見える箱の中に10幅の掛け軸(巻物)らしきものが確認できる(万延元年遣米使節圖録より)
奇跡的に日本に帰還
実はこの掛け軸、静岡県富士山世界遺産センターが4年前、「富士山が描かれている」という理由で、国内の画商から購入したものでした。ところが、それから2年後、思わぬ事実が明らかになりました。
富士山世界遺産センター(筆者撮影)
1860年の万延元年遣米使節に次いでヨーロッパへ派遣された文久遣欧使節団(1862年)が、フランスやイギリスなど訪問先の6カ国に贈ったとされる掛け軸の中に、「富士飛鶴図」と構図が酷似した作品があることが判明。さらに、それらの掛け軸が、この「富士飛鶴図」を手本にして制作されたことを裏付ける史料も見つかったというのです。
同センターの松島仁教授よれば、幕末期の外交史料集である『続通信全覧』の「新見豊前守等米国渡航本条約書交換一件」には、アメリカ大統領へのさまざまな贈答品に関する記録が残されており、渡米の数カ月前から絵師や職人に細かな発注をおこなっていたことや、その制作過程が詳細に記されていたそうです。
そして、この記録から、「富士飛鶴図」という掛け軸は、その寸法や模様、仕様に関する指示内容から、まさに1860年の遣米使節が持参した当時の贈答品のひとつであることが特定できたというのです。
『続通信全覧』によれば、贈答用の掛け軸は「富士飛鶴図」を含め計10幅が制作され、セットで贈られたようなのですが、残念ながらそれらはすべて所在不明となっていました。つまり、今回富士山世界遺産センターが偶然入手することになったこの「富士飛鶴図」が、現在確認できる唯一の掛け軸ということです。
調査にあたった松島教授はこう語ります。
「江戸時代、富士山は不可視的存在である徳川将軍と一体化し、その威光を示す政治的な装置として機能していました。この掛け軸は、まさに富士山が日本を代表する美として評価され、幕末の外交、政治にも使われていたことがわかる重要な資料といえるでしょう」
では、なぜアメリカ大統領へ送った貴重な品が、再び日本に戻ってきたのでしょうか。その経緯については今のところ分かっていませんが、160年もの時を経ながら、完璧な保管状態で富士山世界遺産センターに里帰りし、こうして遣米使節子孫の会のメンバーと対面できたことは、まさに奇跡と言えるでしょう。
160年のときをへて里帰りしたアメリカ大統領への贈答品「富士飛鶴図」に見入る万延元年遣米使節子孫の会のメンバーたち(筆者撮影)
ちなみに、佐野鼎(筆者の母方の傍系先祖)は、駿河国(現在の富士市)出身で、江戸の学問所に上がる16歳頃まで富士山の麓で育ちました。『開成をつくった男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)の中では、旅の守りとして故郷の富士をかたどった根付を大切に携行する鼎の姿を描いています。
日々、雄大な富士山の姿を仰ぎ見ていたであろう鼎は、アメリカ大統領への贈答品の中に富士山をモチーフにしたこの掛け軸が含まれていたことを知っていたでしょうか。もし知っていたなら、きっと誇らしい気持ちになったのではないかと想像します。
いつの時代も、国際外交には心のこもった贈り物が欠かせません。石破首相は第47代のアメリカ大統領となるトランプ氏にどんな品を携え、コミュニケーションを図るのか、今から楽しみです。
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記
(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎
(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味
(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句
(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点
(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂
(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した
(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命
(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記
(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」
(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック
(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅
(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士
(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師
(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父
(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」
(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記
(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯
(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?
(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身
(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち
(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記
(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志
(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目
(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由
(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析
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