パリでナポレオン3世に謁見した幕末のサムライたち、なぜ正装で臨まなかったか
『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第64回)
2024.5.3(金)
サムライたちの服装に違和感
5月1日からフランスのパリを訪問している岸田首相。アタル首相には「ドラゴンボール」のこけしを、マクロン大統領には同じく「ドラゴンボール」の切子グラスを土産にしたことが話題になっていますが、もちろんそれが主目的ではなく、ウクライナや東アジア情勢、生成AI国際的なルール作りなど、国際社会が直面する問題についての議論が交わされる予定です。とはいえ、首脳外交での「お土産」はいつも注目されますね。
実は、フランスとの正式な外交交渉は、すでに江戸幕府から始まっていたことをご存じでしょうか。あの時代のサムライたちも、相手国への贈答品やドレスコードには、かなり気を使っていたようです。
こちらをご覧ください。これは今から162年前、パリで発刊されていた週刊新聞「LE MONDE ILLUSTRE」(1862.4.19)に掲載されたイラストです。文久2(1862)年、幕府から差し向けられた日本の遣欧使節団が、当時の皇帝・ナポレオン3世に謁見している場面です。
フランスの週刊新聞「LE MONDE ILLUSTRE」(1862年4月19日付)に掲載された皇帝ナポレオン3世に謁見する遣欧使節団の様子を描いたイラスト
壇上の椅子に腰かけるナポレオン3世とその妻・ウジェニー。2人の前にうやうやしく歩み寄るのは日本のサムライたちです。右の奥にはドレスで着飾った宮廷の女性たちが大勢見守っています。
しかし、このイラストを見て、どことなく違和感を覚えた人も多いのではないでしょうか。
実は、私もそのひとりでした。目を凝らしてじっくり見ると、やはりどこかおかしい……。日本の国を代表する使節たちが、初めてフランス皇帝に会うという公式の場でありながら、彼らの着衣は、「狩衣(かりぎぬ)」という当時の正装にはどうしても見えないのです。肩のあたりにかかっている円形のマントのようなものは、いったい何なのでしょう。
さらに、足元を拡大してみましょう。
ナポレオン3世に謁見したサムライたちの拡大イラスト
なんと、草履ではなく、靴を履いているではありませんか。
「袴に靴」といえば、坂本龍馬の肖像写真が有名ですが、あの写真は慶応元(1865)年から慶応3(1867)年の間に撮影されたものだと言われています。文久遣欧使節たちはそれより数年前、しかも歴史的外交の場で、靴を履いている姿をフランスの新聞に記録されていた、ということになるのです。いったいなぜなのか?
そこで今回は、その謎に迫ってみたいと思います。
開港延期を交渉するための使節団
本連載の第63回 ≪50万人の群衆!164年前の米国人が熱狂、訪米した「サムライ」の歓迎特大パレード≫では、TV朝日『クイズプレゼンバラエティーQさま!!』で出題されたニューヨーク・ブロードウェイでの歴史的な写真(1860年)を紹介しました。これは、幕府が派遣した遣米使節団を歓迎するパレードを撮影したものだったのですが、そこに本連載の主人公である「開成をつくった男 佐野鼎(かなえ)」も臨場していたことを取り上げました。
遣米使節の2年後、佐野鼎は文久遣欧使節にも参加し、ヨーロッパ各国を訪問しています。
文久遣欧使節は1862年、江戸幕府が初めてヨーロッパに派遣した使節団です。1月22日、竹内下野守(正使)、松平石見守(副使)、京極能登守(目付)をトップとした36名の使節団が、イギリス軍艦・オーディン号に乗って、品川からヨーロッパへと出港したのです。
使節団の主要メンバー。左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)(Gaspard-Felix Tournachon (1820-1910). Nadar Atelier. Paris 1862., Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
その目的は、幕府が1858年にオランダ、フランス、イギリス、プロイセン(現在のドイツ、ベルギー、チェコ、デンマーク、リトアニア、ポーランド、ロシア)、ポルトガルと交わした修好通商条約の内容を変更することについての覚書を交わすこと。具体的には、新潟、兵庫、江戸、大坂の開港・開市の延期についての交渉でした。
加賀藩士だった佐野鼎は、当時32歳。砲術や航海術、天文学の専門家で、語学も優れていたため、遣米使節に続き遣欧使節としても抜擢されたと考えられます。幕臣ではなかったため、肩書は「賄い方・小遣い」という立場でしたが、このときパリの有名な写真館で撮影された写真が、『開成をつくった男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)の表紙となっています。
『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)
ちなみに、遣米・遣欧、両方の使節団に参加し、地球を2周した日本人は、日高圭三郎、益頭駿次郎、川崎道民、佐藤恒蔵、佐野鼎の5名です。幕末期、彼らがいかに希少な経験を積んだ人物であったかがわかります。
伊藤博文や井上馨などイギリスへ渡った長州藩の5人の若者たちが「長州ファイブ」と呼ばれ、海外渡航のパイオニアのように評されることが多いのですが、彼らが海を渡ったのは1863年です。佐野鼎たちはその3年前から、すでに数えきれないほどの国々を正式に訪問し、最先端の文明を視察していました。彼らこそ「遣米・遣欧ファイブ」として認知されるべき存在なのですが……。
サムライたちの訪問を現地紙誌はどう報じた
さて、話を冒頭のパリの新聞のイラストに戻しましょう。ナポレオン3世と謁見するときの日本人使節たちの着衣が、なぜ不自然なのか? という疑問です。
2024年4月14日、東京の開成学園において「第17回佐野鼎研究会」が開催され、同研究会代表の田村芳昭氏(元横浜薬科大学講師)が、『1862年の新聞に見る文久遣欧使節』と題して講演されました。実は、その研究発表の中で、あのイラストの謎が解き明かされたのです。
田村氏はその語学力を生かし、日本人のサムライたちが遣米・遣欧使節として訪問したとき、それぞれの国のメディアが、当時、彼らをどう報じていたかを緻密に調査、研究されています。具体的には、現地の古い新聞を日付から検索し、不鮮明な文字を読み込みながら、日本人使節に関する記載を探し、翻訳しているそうです。まさに、気の遠くなるような作業です。
講演する田村芳昭氏(筆者撮影)
1862年4月13日、極東の国・ニッポンからフランスへやってきたサムライ使節団は、やはり現地でも注目の的だったようで、パリの新聞「LE MONDE ILLUSTRE」は、その日のことをしっかり報じていました。当時の新聞は週刊だったので、6日後(4月19日)の紙面で例のイラストとともに詳細に記されています。
では、いったいどんなことが書いてあるのか。田村芳昭氏による訳文から一部抜粋し、紹介させていただきます。
使節団が遭遇したアクシデント
<先週、当地に到着した大君(14代将軍・徳川家茂)の大使らは、4月13日日曜日、午後2時半に皇帝による公式謁見を受けた。>
<豪華と絢爛が権力の特権である極東の国では、丁寧な接見と誠実な対応が欠かせないであろう。我々はこう言わなければならない。『大国の意思を見せつけて彼らの目を覚まさなければならない』>
「大国」とはフランス帝国のことでしょう。「見せつけて」という言葉に、国力の差を感じさせられます。
謁見時のイラストの「疑問」については、以下の記事を読んで合点がいきました。
<正装、贈答品、工芸品等を詰めた130の荷物の到着は遅れていた。日曜日の朝、大使らはショナールの陣屋にいたが、日曜日の晩さん会に黒服ではなく正装で招かれていたはずだった。>
なんと、日本人使節の荷物が到着せず、謁見の際に正装できない、というアクシデントに見舞われていたのです。遅延の理由はわかりませんが、さぞかし焦ったことでしょう。とはいえ、予定されていたナポレオン3世との謁見をキャンセルするわけにはいかず、日本人使節たちは仕方なく、フランス側が用意したベストを羽織り、靴を履く羽目になったようです。
記事は続きます。
<シャム国のムリナラフラカデやフラマナロンだったら、正装でなくとも一瞬でもためらわなかっただろう。ルナールかチェルヴェイルを呼びつけてヨーロッパ風の服装になっただろう。しかし日本人はシャム人とは違い、自国の風習にこだわる。彼らは我々の豪奢な黒い帽子を投げ出し、エナメル靴を不思議がり、豪華なヴェストを頭からかぶった。>
さすがにあちらの黒い帽子をかぶることだけは我慢ならなかったようで、「投げ出し」とありますが、こうした使節らの言動を、シャム(タイ)人と比較し、日本人が「自国の風習」に強くこだわるさまをしっかり観察されていたのは興味深いことです。
「彼らは我々同様、文明化されている」
そして結果的に、パリの新聞記者は日本人使節たちの振る舞いを見て、以下のように敬意を表し、高く評価していました。
<今日にでも彼らに言いましょう、この高貴な外国人は安心して身を任せられると。いくつかの新聞は、食人種のことを言っているが、彼らは我々同様、文明化されている…。(中略)我々は彼らに何か奇異なものや斬新な発想を期待していたが、発見したのは、中国人の特徴を思い起こさせる姿かたちを除けば、ヨーロッパに並ぶ古い東洋であった。彼らの中の何人かは真の科学者で、精密化学の分野でとても先進的で、多くの東洋人のように機械技術に関心を持ち、また、天文学に精通している。>
「彼らの中の何人かは真の科学者」……、きっとその中の一人に、佐野鼎も含まれていたのではないかと思われます。
160年も前の外国新聞から記事を探し出し、不鮮明で小さな文字を翻訳する、田村氏によるそのち密な作業のおかげで、日本人が欧米列強からどう見られていたか、また、現地でどのような歓迎を受け、どう評価されていたのか、そうした真実が、いま解き明かされつつあります。
パリに20日余り滞在した日本人使節一行は、その後、フランスの軍艦に乗り込み、ドーバー海峡を渡ってイギリスに向かいます。
明治維新の6年前、万博でにぎわっていた当時のロンドンで、佐野鼎は何を見聞し、感じたのか、あらためてレポートしたいと思います。
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記
(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎
(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味
(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句
(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点
(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂
(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した
(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命
(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記
(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」
(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック
(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅
(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士
(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師
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