遣欧使節の福沢諭吉や佐野鼎にシンガポールで教育の重要性説いた漂流日本人
『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第57回)
2022.4.21(木)
連日報道される、ウクライナの惨状。市民の平穏な営みを武力で破壊する前に、なす術はなかったのでしょうか……。このような戦争が現在進行形で起こっているということが、にわかに信じられません。
次々と映し出される現地の映像を見ながら、私はふと思いました。
『幕末、ロシアを含むヨーロッパ諸国を訪問し、懸命に外交に取り組んだ彼らが、もし、この状況を知ったらなんと言うだろうか……』と。
幕末、米国と欧州を訪れた6名の日本人
それは今から160年前、明治維新の6年前のことです。日本人として初めて、ロシアを公式訪問したサムライたちがいました。
外国奉行兼勘定奉行・竹内保徳を正使とする、計36名の「文久遣欧使節団」です(*後日、通訳が2名追加)。
彼らは幕府の命を受け、1862年1月(*旧暦1861年12月)、イギリス軍艦「オーディン号」に乗り込んで品川を発ち、約1年をかけて、フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルを訪問し、各国の国王に拝謁したのです。
実は、この使節団のメンバーの中には、本連載の主人公である「開成を作った男・佐野鼎(さのかなえ)」も含まれていました。
佐野鼎はこの2年前(1860年)、幕府が初めてアメリカに派遣した「万延元年遣米使節団」の一員でもありました。その航海のエピソードは、本連載でもたびたび取り上げてきたとおりです。
あまり知られていませんが、幕末、「万延元年遣米使節」(1860~61年)と「文久遣欧使節」(1861~62年)に参加し、アメリカとヨーロッパの両方を訪れた希少な経験を持つ日本人は、次の6名のみでした。
以下、遣欧使節時の年齢と肩書きで紹介します。
・日高圭三郎 (28/勘定役)
・益頭駿次郎 (34?/普請役)
・川崎道民 (31/医師)
・福沢諭吉 (27/通詞)
・佐野鼎 (33/船中賄方)
・佐藤恒蔵 (38/船中賄方)
*福沢諭吉以外の5名は、「遣米使節団」として首都のワシントンを訪れていますが、福沢は、護衛の役割を担った「咸臨丸」でサンフランシスコまで渡航し、そのまま日本に引き返しています。
頭脳明晰だった彼らは、初めて訪れた異国の地で多くのものを観察し、日本にはないシステムを吸収しました。そして、それぞれの視点で「訪欧日記」を書き残し、維新後は各分野で活躍することになるのです。
文久2年(1862年)オランダにて。右から柴田剛中、福沢諭吉、太田源三郎、福田作太郎(不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
ロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見
さて、長い航海の末、ヨーロッパに出向いた日本の使節団一行が、ロシアのサンクトペテルブルクを訪れたのは1862年8月のことでした。
この当時のロシアは、クリミア戦争に敗れてから6年目、皇帝アレクサンドル2世が統治していました。前年の1861年には「農奴解放令」が出され、イギリスなどに倣って、近代的な改革が徐々に進み始めていました。
日本人使節一行は、サンクトペテルブルクに到着してから5日目、宮廷に赴き、アレクサンドル2世の謁見を賜ります。
このときの訪問の目的は、日本での「開市・開港の5年間の延期」を正式に求めることにありました。正使の竹内は、14代将軍・徳川家茂から託された「国書」を皇帝に差し出し、深々と挨拶。皇帝は「開市・開港の延期」を承諾し、覚書を交わしました。そして、「今後は隣国同士よい関係を保っていきたい」と述べたそうです。
一方で、両国の間には樺太の境界問題が横たわっていました。これについてはその後、サンクトペテルブルクで複数回の会議が開かれましたが、結果的にロシア側との合意には至りませんでした。
ロシア皇帝アレクサンドル2世(不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
佐野鼎や福沢諭吉がシンガポールで遭遇した日本人
「歴史をさかのぼれば、『ロシアの南下政策』は現在に至るまで、着々と進められていることがわかります。まず、今回のウクライナへの侵攻で改めて思い起こされるのは、過去2回にわたる極東での国境線の南下です。
1945年8月、敗戦濃厚となった日本に対して旧ソ連が、日ソ中立条約(1841年4月)を一方的に破棄し、北方領土に攻め入ってきたこと。さらに、160年ほど前、ロシアは第二次アヘン戦争の仲介役を買って出る見返りに、中国北東部の広大な土地を得たこと……。それだけに、幕末のあの時代、日本が西洋列強に主権や領土を侵されることなく維新改革が実行できたのは、なんとも不思議なことでした。
その不思議をよくよく調べてみると、二度にわたるアヘン戦争当時、東南アジアをまたにかけて活躍した元日本人漂流民の音吉(ジョン・M・オトソン)の姿が際立って浮かび上がってくるのです」
そう語るのは、『音吉伝―知られざる幕末の救世主―』(新葉館出版)の著者・篠田泰之さんです。
今年1月、『音吉物語 世界への架け橋となった日本最初の国際人』(まんが/富士山みえる・発行/潮騒令和塾)という小冊子が、篠田さんの監修で発行されました。その中に、遣欧使節の一員だった佐野鼎と福沢諭吉がシンガポールに寄港時、音吉と面談する場面が描かれています。
『音吉物語 世界への架け橋となった日本最初の国際人』より
音吉は、佐野鼎と福沢諭吉に向かって、こう力説します。
「かれら(ロシアやイギリスなど西洋列強)は、いずれ清国と同じように日本を狙ってきます。それを防ぐために、日本は近代的な科学技術を学ぶべきです!」
佐野鼎はその2年前、遣米使節の行程で香港に立ち寄ったとき、アヘン戦争で敗北しイギリスの属国になった清国(現在の中国)の人々のみじめな姿を目の当たりにしていました。それだけに、音吉からこうした言葉を聞いていたとすれば、大変深刻に受けとめたはずです。
幕末外交の裏側に垣間見える、漂流民「音吉」の存在
音吉については、以前、本連載でも取り上げました。
14歳のとき知多半島南部美浜町から江戸に向かう千石船に乗り込んだ船が遭難し、1年2か月後、北アメリカに漂着。その後、日本に一度も帰国することができないまま、イギリスの会社に勤め、スターリング艦隊で通訳を務めるなど数奇な運命をたどった人物です。
(参考)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61216
篠田さんは語ります。
「音吉は当時、イギリスの市民権を得て活躍していましたが、決してイギリスに迎合していたわけではありませんでした。むしろイギリスの身勝手な覇権主義に強い警戒感を抱いていたはずです。
しかし、勤勉で誠実な彼は、弱肉強食の世界、つまり全く違う価値観の中にあって、人種や民族の垣根を超えて信頼を得、尊敬されていました。そして、当時外交の要人であった、米駐日公使タウンゼント・ハリスや、英国外交官ラザフォード・オールコック、ハリー・パークス、その他複数の宣教師らに日本人の考え方や生き方を伝え、日本型民主主義を彼の地に芽吹かせていました。私は音吉のこうした行動が、あの時代、日本が植民地化や自治権の侵害を免れた要因のひとつではないかと思うのです」
音吉が影響を与えた主な異国人(『音吉物語 世界への架け橋となった日本最初の国際人』より)
佐野鼎と福沢諭吉をこの小冊子の終盤に登場させた理由については、こんな答えが返ってきました。
「音吉のシンガポールでの活躍が、後に教育者となる彼らに少なからぬ影響を与えたと思ったからです。特に佐野鼎は西洋砲術家としての洋行であったはずですが、帰国後は共立学校(現在の開成学園)を創設し、見事な転身を遂げました。米国の新聞で『使節団の中でもっとも学識に富んでいる』と評された佐野鼎にとっても、まさにシンガポール寄港時の音吉との出会いは、ターンニングポイントではなかったかと……。私はここに、音吉に呼応した佐野鼎を見るのです」
たとえ逆境の中にあっても、『we will try again』(もう一度やってみよう)と前向きに生き抜いた音吉。彼は、自身が置かれた異国の社会規範や語学を体得しました。そして、英語だけでなく、ドイツ語やフランス語も操ったと言います。
冊子『音吉物語 世界への架け橋となった日本最初の国際人』
しかし、運命に翻弄された音吉は望郷の念を募らせながらも、一度も日本に戻ることなく、シンガポールで息を引き取ります。49歳でした。
篠田さんは、そんな音吉の生き様を改めて現代の若者たちに伝えたいと思い、今回、若年層でも読みやすいようにとマンガでの出版に踏み切ったのだと言います。
音吉が実践した「日本型民主主義」とは何か、またどこの国のどんな人物が彼に影響を受け、日本の近代化に影響を及ぼしたのか。本冊子にはそうした情報も盛り込まれています。
ご興味のある方は、ぜひ手にとってご覧ください。
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記
(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎
(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味
(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句
(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点
(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂
(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した
(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命
(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記
(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」
(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック
(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅
(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士
(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師
(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父
(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」
(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記
(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯
(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?
(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身
(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち
(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記
(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志
(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目
(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由
(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析
(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇