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「開成」創立者・佐野鼎の顕彰碑が富士市に建立

『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第55回)

2021.10.22(金)

開成をつくった男、佐野鼎はこちら

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「開成」創立者・佐野鼎の顕彰碑が富士市に建立

 10月19日午後、JR新富士駅において、本連載の主人公である「開成を作った男、佐野鼎(かなえ)」の顕彰碑除幕式がとり行われました。

 お披露目された碑の前には『祝 富士市が生んだ開成学園創立者 佐野鼎先生顕彰碑除幕式』と記された看板が、晴れ晴れしく掲げられています。

 今年、創立150周年を迎える「学校法人開成学園」によって建立されたこの顕彰碑には、佐野鼎の故郷のシンボルである富士山と、遣米使節として乗船した米軍艦「ポーハタン号」を背景にしたレリーフ、そして佐野の49年間の生涯を記した撰文が刻まれています。レリーフは開成学園の美術教諭で日展特別会員の大友義博氏、撰文は同学園の教諭で歴史学博士の松本英治氏によって制作されました。

佐野鼎顕彰碑(筆者撮影)

佐野鼎顕彰碑(筆者撮影)

 実はこの日、富士市では朝から強い雨が降っており、誰もが「今日は土砂降りの雨の中、傘をさしての除幕式になるかもしれない・・・」と覚悟していました。それだけに、午後から予定されていた式典の前に雨が上がり、うっすらと冠雪した富士山が見事な姿を現してくれたことには驚きを隠せませんでした。

当日は朝から雨模様だったが、除幕式の前には雨が上がり、富士山が見事な姿を見せた(筆者撮影)

当日は朝から雨模様だったが、除幕式の前には雨が上がり、富士山が見事な姿を見せた(筆者撮影)

 除幕式に出席した富士市長の小長井義正氏は、祝辞の中で、

「顕彰碑の中の凛々しい佐野鼎先生のお姿、その背景には富士山が描かれています。どの時代、どの場所においても、富士山というのは人の心のよりどころであったのではないかと改めて思う次第です」

 と述べ、この顕彰碑にかける思いについてこう語りました。

「今回、この地に顕彰碑が建立されたことで、佐野鼎さんという偉人がこの富士市で生まれ育ったということを市民の皆様が知ることとなり、それが郷土愛、そしてこの地域への誇りにつながっていくものと確信しております」

左から、森田正郁氏(副市長)、米山享範氏(市議会議長)、小長井義正氏(富士市長)、丹呉泰健氏(開成学園理事長・元財務事務次官)、野水勉氏(開成中学校・高等学校校長)、永井良三氏(開成会会長・自治医科大学学長) (筆者撮影)

左から、森田正郁氏(副市長)、米山享範氏(市議会議長)、小長井義正氏(富士市長)、丹呉泰健氏(開成学園理事長・元財務事務次官)、野水勉氏(開成中学校・高等学校校長)、永井良三氏(開成会会長・自治医科大学学長) (筆者撮影)

富士市で生まれ育った幕末の偉人・佐野鼎

 佐野鼎の顕彰碑が富士市に建立された理由については、2021年4月に執筆した本連載(第51回)をご覧ください。

(参考)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65000

 この記事でもお伝えした通り、開成学園の創立者である佐野鼎は、幕末の文政12(1829)年、駿河国富士郡水戸島村(現在の静岡県富士市水戸島)に生まれ、17歳で江戸へ出るまでこの地で過ごしました。

 佐野鼎の足跡は、日本のみならず世界各国に残っていますが、出身地はあくまでも富士市です。

 今年4月、富士市と開成学園の間で締結された協定書には、

『富士市と開成学園が連携し、それぞれの資源や機能などの活用を図りながら幅広い分野で相互に協力し、人材の育成に寄与することを目的とする』

 そして連携協力事項として、

『教育・文化、佐野鼎に関する研究を通じた関係者等との人的交流の推進』

 などが掲げられています。

 今回の顕彰碑建立は、その取り組みの大きな一歩として、「静岡県東部開成会」「駿河郷土史研究会」、そして開成OBを主要メンバーとして構成される「佐野鼎研究会」の後援を得て実現したのです。

開成OBの岸田文雄首相からもメッセージが

 除幕式には、開成学園の卒業生として、今月、初の内閣総理大臣に就任した岸田文雄氏からもお祝いのメッセージが寄せられました。

「佐野鼎先生は、幕末の混沌とした時代に、遣米使節、遣欧使節の一員として海を渡り、帰国後、開成学園の前身『共立(きょうりゅう)学校』を作った人物として知られており、生誕の地が富士市であることが縁となり、富士市と連携協定が結ばれたと伺っております。このたび、この地に顕彰碑が建立されることは、将来にわたり、両者のよりよい関係を築くうえでも大変意義深いものと感じております。私も開成高校OBとして大変嬉しく思うとともに、今後も応援してまいりたいと考えております」

 岸田氏の言葉にもある通り、佐野鼎は日本初の万延元年遣米使節、文久遣欧使節の両方に随行し、異国の地で見聞を広めた数少ない日本人(6名)の中の1人です。

 現在放送中のNHK大河ドラマ『晴天を衝け!』では、1867年、主人公の渋沢栄一が遣欧使節としてパリ万博を見学する場面が描かれていましたが、佐野鼎はその7年前、すでにワシントンのホワイトハウスに足を踏み入れ、フィラデルフィアやニューヨークで最先端の教育制度を視察していました。そして、1862年にはロンドン万博を視察し、当時世界から注目されていた「アームストロング砲」の設計図まで入手していたのです。こうした事実はあまり知られていないのではないでしょうか。

 佐野鼎顕彰碑は、東海道新幹線のJR新富士駅、北側出口を出てすぐ左側の富士山口構内に建っています。改札口から歩いて1分で到着しますので、ぜひ一度、見学してみてください。

 幕末から明治期を生きた佐野鼎の人生については、彼の傍系子孫にあたる筆者が3年前に上梓した『開成を作った男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)でも詳しく紹介しています。この本を片手に、生誕地である富士市から世界へと羽ばたき、現在の開成学園につながる学校創立までの激動の足跡を辿ってみていただきたいと思います。

<佐野鼎先生顕彰碑の撰文(開成学園教諭 松本英治氏)>

 佐野鼎先生は、文政十二年(一八二九)駿河国富士郡水戸村(現静岡県富士市)に生まれた。長じて江戸に出て幕臣下曽根信敦の塾で西洋砲術を学び、その塾頭を務めた。また、長崎海軍伝習に参加し、蒸気船の運用や航海術を学んだ。

 安政四年(一八五七)加賀藩に召し抱えられた。万延元年(一八六〇)遣米使節に随行して渡米し、ついで文久二年(一八六二)遣欧使節に随行して渡欧した。両度にわたる海外経験を経て、帰国後は新進気鋭の洋学者として加賀藩に重用された。

 維新後は、明治三年(一八七〇)兵部省に出仕した。明治四年(一八七一)神田淡路町に共立学校を創立し、英語教育を中核に据え、新たな人材の育成に心血を注いだ。しかし、明治十年(一八七七)病に倒れ、志半ばにして死去した。

 共立学校は、佐野鼎先生の死後、高橋是清先生がその運営を継承した。明治二十八年(一八九五)校名を開成と改め、大正十三年(一九二四)校舎を日暮里に移転し、現在の開成学園に至っている。

 

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯

(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?

(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身

(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち

(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記

(第46回)アメリカ大統領に初めて謁見した日本人は誰か

(第47回)江戸末期、米国で初めて将棋を指してみせた日本人

(第48回)「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志

(第49回)江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目

(第50回)渋沢栄一と上野に散った彰義隊、その意外な関係

(第51回)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由

(第52回)幕末に初めて蛇口をひねった日本人、驚きつつも記した冷静な分析

(第53回)大河『青天を衝け』が描き切れなかった「天狗党」征伐の悲劇

(第54回)『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた