『青天を衝け』に登場の英公使パークス、七尾でも開港迫っていた
『開成をつくった男、佐野鼎』を辿る旅(第54回)
2021.6.26(土)
NHK大河ドラマ『青天を衝け』。6月20日に放送された第19回目の前半には、イギリスの公使ハリー・パークスが登場し、日本に強く開港を迫るシーンが描かれました。
進まぬ開港に苛立つ英公使パークス
1858年に修好通商条約が結ばれてから7年も経つというのに、なぜ遅々として開港が進まないのかと、パークスは苛立ちを見せます。
もみ上げから頬にかけて豊かなひげをたくわえたパークスは、一見すると50代をはるかに超えた紳士に思えましたが、実は1828年生まれの彼のこの時点(1865年)での実年齢は、37歳です。当時、国を背負って外交交渉の最前線にいたのは、30代の若手だったのですね。
イギリス公使ハリー・パークス(wikipediaより)
ちなみに、パークスの日本語通訳を務め、詳細な日記を残したことでも知られているアーネスト・サトウという人物は、1843年生まれ。つまり、このときはまだ22歳という若さでした。
イギリス船来航
さて、幕末の「開港」にまつわる話題に必ずその名前を目にする英国公使、ハリー・パークス。実は、本連載の主人公である「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」も、当時日本一の大藩であった加賀藩(主に現在の石川県)の代表として、パークスと直接対面の上、外交交渉に臨んだ一人でした。
それは1867年8月(新暦)のことでした。
加賀藩の領地である七尾の港に、イギリスの艦船が突然3隻も現れたのです。
その知らせは、いち早く金沢城下にも届けられました。そして、当時38歳の佐野鼎は、藩からイギリス側との交渉を一任され、七尾へ急行することになったのです。
このとき、英軍艦バジリスク号の艦内でおこなわれた興味深いやりとりの様子が、アーネスト・サトウの日記に記されていますので、一部抜粋してみたいと思います。
*以下、『外国交際 遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄 5』(萩原延壽著/朝日文庫)より
●八月八日(陰暦七月九日)
『夜、金沢から派遣された佐野鼎、里見亥三郎、新保吉五郎が到着した。かれらのサー・ハリー訪問は、明朝九時ということに決めた」
●八月九日(陰暦七月十日)
『阿部、佐野、里見が時間通りに来艦し、それからなんと5時間も会見がつづいた。おわりごろには、例によって私は腹がすいてしまい、ひどく不機嫌になった。われわれは、七尾を開港場にする件について話し合った。かれらはこれに反対で、領民が外国交際に慣れていないこと、領民の大部分は開港にともなって必ず起きる物価の騰貴を恐れ、開港に反対していること、藩主個人はいかに開港をのぞんでいても、やはり領民の意見に従わなければならないこと、などの理由を挙げた』
腹がすいて不機嫌になった・・・、という、なんとも20代の若者らしい素直な表現には親近感を覚えますが、対する加賀藩の佐野鼎たちも、七尾港を簡単に開くことはできないと、きっと空腹をこらえて必死で粘ったのでしょう。
良港・七尾港
実は、加賀藩にとって、外国との直接交渉はこれが初めてではありませんでした。
この年の5月にはイギリス船、6月にはアメリカ船が相次いで七尾港に入港しており、いずれも佐野鼎が応接にあたっていました。
佐野鼎はすでに、万延元年遣米使節(1860年)、文久遣欧使節(1862年)の随員として、アメリカ、欧州へ2度の海外渡航を経験しており、ロンドンで開催された万博も見学していました。もちろん、藩の中では一番の英語の使い手だったため、この役割を担えるのは彼しかいなかったのでしょう。
ではなぜ、幕末、七尾港に外国から艦船が次々と入港していたのでしょうか。
それは、能登半島の東側に位置する七尾港が、世界を見渡してもなかなか見当たらないほどの良港だったからです。
七尾港のある七尾湾は、その中央に浮かぶ能登島によって、北湾、南湾、西湾に隔てられ、海が荒れたときには崎山半島と能登島が防波堤となってくれるため、多くの大型船がここを避難港として利用していました。アメリカやイギリスは、すでにこのとき、七尾港の水深などの詳細な測量を済ませていました。
長崎海軍伝習所の一期生として航海術を学び、外国の艦船に乗って世界中の主要な港をこの目で見てきた佐野鼎は、七尾港の価値を誰よりも知っていました。それだけに、イギリスやアメリカがどれほどこの港の開港を望んでいるのかをよく理解していたはずです。
また、彼らが単に通商を望んでいるだけではなく、広大な領土と力を持つロシアの侵略を防ぐため、日本海側の港を押さえておく必要があるということも、察しがついていたのでしょう。
しかし、実のところ、何より加賀藩が危惧していたのは、七尾港が正式に開港されれば、この良港が幕府の直轄地にされてしまうことでした。
幕府がアメリカに続いて、イギリス、フランス、ロシア、オランダの四カ国と修好通商条約を締結したのは1858年のこと。このとき幕府は、横浜、神戸、函館、長崎のほか、日本海に面した港を開港すると決定していました。
その後、日本海側の開港場は新潟ということに決まったのですが、幕府は当初、七尾港を開港しようと考えており、加賀藩の領地である七尾と能登の国に点在する幕府の天領地との交換に応じるよう強く迫っていました。しかし、当時の加賀藩主・前田斉泰はそれを固く拒んだのです。
パークスの要求を退け七尾港を死守
パークスたちは、そんな幕府と加賀藩の事情をお見通しだったようです。
アーネスト・サトウの日記には、こう綴られています。
「この地方はずっと昔から加賀藩の領地であり、他藩の領地は介在せず、かれらはここに政府の権力が介入してくるのを好まなかった。七尾は能登、加賀、越中の三国にわたる唯一の良港であり、かれらとしてはどうしても手放すことのできない土地であった。サー・ハリーも、彼らの意見に同意した」
結果的に加賀藩は、パークスをあきらめさせ、七尾港を死守することに成功したわけですが、このときの緊迫したやり取りは、『開成をつくった男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)の中でも描かれています。
このとき、イギリスと加賀藩の間で、こんなやり取りもあったようです。
イギリス側は、「食料が不足している、代金はいくらでも払うので、急いで牛を15~16頭調達してほしい」と依頼してきたというのです。それを受けた加賀藩は、大急ぎで牛を調達し、そのほかにも、鶏卵、魚、スイカ、リンゴ、梨などの食料品を大量に集めて、イギリス艦船に運び入れたそうです。
また、母国への土産用にいかがかと、加賀の名産品を紹介すると、イギリス人水兵たちは、九谷焼の急須や徳利、杯、山中塗りの瓢(ひさご)等の塗り物、扇、団扇、手ぬぐい、袷(あわせ)や単物(ひとえもの)、帷子、帯などを喜んで購入したそうです。
真剣な外交交渉の裏側に、こうした微笑ましいエピソードもあったのですね。
七尾港を開港して国際港とする腹案も
この年の10月、イギリスとの交渉が評価されてのことでしょうか、佐野鼎は組頭並に出世し、役料一五〇石、壮猶館経武館合併御用主務となりました。
しかし、彼の本音としては、この機会に七尾港を開港しておけば、近い将来、日本における国際港として十分な機能を発揮できるのではないかという考えもあったようです。
実際に七尾港ではこの時期、佐野鼎を責任者として製鉄所の建立準備も着々と進められていました。遣米使節で共にアメリカの造船所を視察した小栗上野介が作った横須賀製鉄所にも見学に行き、イギリス製の高圧蒸気機関のほか、各種工作機械、起重機(クレーン)など、製鉄所に不可欠な機械類一式も購入していたのです。これが実現すれば、七尾港で造船や船の修理も可能となり、世界に誇れる港になると考えていたのでしょう。
佐野鼎が1860年に訪れたワシントンの海軍工廠に残るドック(筆者撮影)
しかし、間もなく江戸時代は終焉を迎えます。
加賀藩を離れ上京した佐野鼎は、維新後の明治4年、現在の開成学園の前身である「共立学校」を立ち上げるまでの間、明治新政府(兵部省)に出仕していました。
結果的に、七尾港に「製鉄所」の完成は実現しませんでしたが、佐野鼎が心血を注いで外国から取り寄せた機械類は、後に兵庫へと移送され、現在の川崎重工業の礎を築いたことはあまり知られていない事実です。
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
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