渋沢栄一と上野に散った彰義隊、その意外な関係
『開成をつくった男、佐野鼎』を辿る旅(第50回)
2021.2.20(土)
2月14日から、NHK大河ドラマ『青天を衝け』がスタートしました。
ドラマは、吉沢亮さん演じる若き日の主人公・渋沢栄一と、高良健吾さん演じる栄一の従兄・渋沢喜作が、馬で通りかかった徳川慶喜に全速力で駆け寄って、直訴するシーンから始まります。そして、お話は渋沢の幼少時代へ・・・。
母・ゑいが、幼い栄一に向き合い、
「あんたがうれしいだけじゃなくて、みんながうれしいのが一番なんだで」
と諭すその言葉は、彼の人生にとって、生涯にわたる大きな礎となったことでしょう。
多面性を持つ渋沢栄一
2024年から発行される1万円札の肖像画のモデルとしても脚光を浴びていますが、彼の功績はあまりに多岐にわたっているため、一言で説明することは容易ではありません。
500以上の会社を設立したという逸話を聞くだけでも、「一人の人生の中でこれだけのことが成し遂げられるのか・・・」と、ただただ驚くばかりです。
渋沢より7年先にヨーロッパを視察していた佐野鼎
さて、本連載の主人公「開成を作った男、佐野鼎(さのかなえ)」は、文政12(1829)年生まれですから、天保11(1840)年生まれの渋沢は、佐野鼎より11歳年下ということになります。
幕末という同じ時代を生きたこの二人を見ていくと、共通の知人がとても多く、どこかで接点があってもまったく不思議はないと思われる距離感です。
たとえば、第一回目に玉木宏さん演じる高島秋帆(しゅうはん)が登場し、子ども時代の渋沢が、投獄中の高島と柵越しにやりとりする場面が描かれていました。
この高島秋帆という人物は、西洋式の兵法を用いた「高島流砲術」の創始者で、多くの弟子を育て、西洋砲術の普及に大きな影響を与えました。
その一人が、下曽根金三郎(信敦)です。
彼は江戸に「下曽根塾」を開き、全国から集まった門下生に、蘭学や砲術を教えたのですが、この塾で頭角を顕し、若くして塾頭まで上りつめたのが佐野鼎だったのです。
佐野鼎はその後、西洋砲術師範として、日本一の大藩だった加賀藩に召し抱えられ、1860年に万延元年遣米使節の従者として、地球を一周しています。その翌年には、文久遣欧使節の一員として福澤諭吉らと共にヨーロッパへ渡っています。
渋沢栄一も1867~68年にかけて、パリ万博を視察するために渡欧していますが、佐野や福澤は、実は渋沢より7年も前に渡欧していました。
渋沢は明治に入ってから株式会社を多数設立していますが、このときの渡欧の経験が大きなきっかけになったと振り返っています。おそらく、アメリカ渡航を経験している経験豊富な小出から、さまざまな話を聞いたのではないでしょうか。
ちなみに、小出千之助の教え子には、早稲田大学の創始者である元首相の大隈重信がいますが、渋沢と大隈も親しい間柄でした。
小出はパリから帰国して間もなく、不運な最期を遂げます。その場面は『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)にも描いています。
渋沢栄一と「彰義隊」の深い関係
渋沢栄一がパリに滞在していた1867年といえば、大政奉還が行われ、第15代将軍・徳川慶喜が政権を返上し、長く続いた江戸時代が終わりを迎えた年です。
しかし、抗戦派の幕臣たちはその後も闘いを続け、翌1868年には鳥羽伏見の戦いから、戊辰戦争へと、1年以上におよぶ長い闘いに突入します。
この年の5月15日、徳川家直属の家臣による「彰義隊」と薩長を中心とする新政府軍によって、上野戦争という壮烈な闘いが勃発していたことをご存じでしょうか。
ここで、昨年末に出版された一冊の本を紹介したいと思います。
今から100年前に出版された『彰義隊戦史』(山埼有信著)に新しい知見を加え、200点余りの写真や図版を掲載し、まさに「彰義隊を可視化」した永久保存版と言える700ページ近い大作です。
実は、「彰義隊」の当初の頭取こそ、大河ドラマ「青天を衝け」の冒頭に登場した、高良健吾さん演じる、栄一の2歳年上の従兄・渋沢喜作でした。
『新彰義隊戦史』著者の大藏八郎氏は、渋沢栄一と「彰義隊」との関係について、こう語ります。
「渋沢ファミリーが彰義隊に深く関わった事実は殆ど知られていません。栄一の従兄・成一郎(喜作)は彰義隊結成時のトップ、従兄の尾高惇忠が理論的指導者、栄一の養子である平九郎は幹部だったのです」
成一郎は間もなく彰義隊と袂を分かち、「振武軍(しんぶぐん)」という別部隊を結成。平九郎もこちらに加わります。しかし、平九郎は新政府軍との闘いの末、20歳の若さで自刃しています。
フランスから戻った栄一は、さぞ心を痛めたことでしょう。
上野戦争の図
大藏氏はこう続けます。
「もし、渋沢栄一が平九郎からの手紙に応えてフランスからもっと早く帰国していれば、彰義隊に加わって上野戦争を戦ったか、倅・平九郎と共に殉じた可能性があります。もしそうなっていたら明治の日本は資本主義を発起し推進する人材に欠け、拝金主義や私的独占が蔓延り、明治の日本近代化が相当遅れたことでしょう」
『新彰義隊戦史』の中には、渋沢平九郎が、フランスにいる父・栄一に宛てた手紙をはじめ、数々の貴重な史料や写真、錦絵なども収録されています。
上野の戦場に放置された「彰義隊」隊士の遺体を嘆いて・・・
最後に、「新彰義隊戦史」の著者・大藏八郎氏と私とのつながりについて少し触れておきたいと思います。
実は、大藏氏のご先祖(新井貢)と、私の傍系先祖(佐野鼎)は、今から161年前、万延元年遣米使節の従者として、互いに同じ船に乗り、アメリカに渡った仲間でした。
新井貢は、大藏氏の曽祖父の兄に当たり、遣米使節団の正使・新見正興(しんみまさおき)の用人・三崎司の次席で、給人(財務・庶務)を勤めていたそうです。
私たちは現在、「一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会」で活動している仲間でもありますが、そのご縁で、このたび『新彰義隊戦史』の巻頭ページに、私が『杜鵑啼血(とけんていけつ)』という題を揮毫させていただくことになったのです。
これは、5月の雨の中、上野戦争の戦死者の遺体が「賊軍」の汚名を着せられ無残な状態のまま放置されている様を見た隊士の妻・木城由子という女性が詠んだ以下の歌にちなんでいます。
「上野山 動かず去らで 杜鵑(ほととぎす) 鳴く音(ね)血を吐く 五月雨の頃」
血の海となった上野山、そこに横たわる無数の遺体の中に、我が夫がいるかもしれない・・・、木城夫人はこのとき、どんな思いでこの歌を詠んだのか、そのことに思いを馳せ、拙いながら筆をとらせていただきました。
『新彰義隊戦史』を紐解くと、彰義隊は「ただの軍隊」ではなく、その実は江戸時代の武士階級の最上級エリート集団だったことがよく理解できます。
主家のために戦いながらも主家から報いられぬまま、悲劇的な最期を遂げた彼らですが、徳川家も、そしてその家臣団も、心の中では、「自分たちのできなかったことを、よくやってくれた・・・」、そう思っていたのではないでしょうか。
そして、これは私の想像にすぎませんが、明治維新後、日本の近代化のために奔走した渋沢にとっても、その心の奥底から、上野に散った彼らへの哀惜の念が消えることはなかったのではないか・・・。
今年の大河ドラマをきっかけに、渋沢栄一の親族が深く関わった「彰義隊」の意味と、その真実の歴史についても、ぜひ関心を寄せていただければと思います。
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
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