「はやぶさ2」の快挙に思う、幕末に訪米した侍の志
開成をつくった男、佐野鼎』を辿る旅(第48回)
2020.12.8(水)
「ただいま。玉手箱を舞い降ろすことができました」
12月6日、宇宙航空研究開発機構(JAXA)がおこなった記者会見を見ながら、久しぶりにワクワクした方も多いことでしょう。
(参考)6年ぶりカプセル帰還「ただいま」 「玉手箱」開けるの楽しみ―JAXA:時事ドットコム (jiji.com)
記事によれば、探査機「はやぶさ2」は、『6年に及ぶ往復52億キロの飛行を順調にこなした』とのこと。52億キロ? にわかに想像できませんが、地球に投下された「玉手箱」(カプセル)の中に入っているという小惑星の石(砂?)は、いったい何色をしていて、この先どんな謎を解き明かすのか・・・。
宇宙のことはよくわかりませんが、地球からはるか遠く離れたところにある「惑星」に思いを馳せるだけでもドキドキしますね。
宇宙旅行にも匹敵する、幕末の世界一周の旅
さて、「小惑星リュウグウの石」のニュースを見ながら、私はあることを思い出していました。それは幕末、異国の地から石を持ち帰っていたサムライたちのことです。
今から160年前、幕府が日米修好通商条約の批准書をアメリカ大統領と交わすため、ワシントンに派遣された「万延元年遣米使節団」。彼らが持ち帰ったのは異国の石や砂だけではありません。ネジ、ギヤマンの瓶、ガラス食器、双眼鏡や時計などさまざまな工業製品、植物や動物(猿や鳥)、その他、トランプや星条旗、英文の書籍などなど。今もそれぞれのゆかりの場所で大切に保管されています。
当時は自藩の外へ出ることも簡単には許されなかった時代です。ましてや、少し前まで「黒船」と恐れられていたアメリカの軍艦に乗って地球を一周するなんて・・・。
それはきっと、現代人にとっての「宇宙」に匹敵するほどの、未知なる地への旅路だったにちがいありません。
迎えの米軍艦に乗り、アメリカへ旅立った使節団
万延元年遣米使節の一行が江戸を発ったのは、1860年1月22日(旧暦)のことでした。
早朝、白い息を吐きながら築地の軍艦操練所に集合した77人は、それぞれに艀(はしけ)と呼ばれる平底の小舟に乗って、品川沖に碇泊している米軍艦「ポーハタン号」を目指しました。
江戸湾は遠浅だったため、大型船は岸に直接つけることができなかったのです。
トップ3である、正使・新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使・村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)、監察・小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ)らが乗る艀には、立派な家紋旗が掲げられ、江戸湾を吹く風を受けてはためいていました。
小舟がポーハタン号の傍まで近づくと、彼らは梯子を使って、順々に大きな黒い軍艦に乗り換えました。
本連載の主人公である「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」は、その朝の船出のシーンを、『訪米日記』にこう書き記しています。
<正月二十二日 晴
北亜米利加合衆国へ定約取替はしの為の奉使諸官員、朝四つ時揃にて、築地御軍艦操練所に集り、それより小舟に乗りて、品川港に碇泊せる合衆国より迎えの為として艤(ふなよそおい=出向の準備をする)し来たれる蒸気軍船ポーハタンに乗り込むこと、一時少し過ぎたり。>
1860年11月、遣米使節団を江戸まで送り届けたアメリカのナイアガラ号。使節らを下船させるためのはしけ船も描かれている(東善寺ウェブサイトより)
西洋砲術や航海術を学んでいた佐野鼎は、これから自分が乗り込む「ポーハタン号」について、その寸法や備え付けられた装備について、詳細に記録していました。
<この船長さ二百八十フウト(およそ四十七間)、幅四十五フウト(七間半)、深さ二十八フウト(四間半弱)にして、口径七寸二分二厘強の鋳鉄の大砲十挺と、口径九寸二分の大砲一挺、及び五寸口径銅造のボートホイッスル(船舶用の小型大砲)四挺を備え・・・>
「フウト」とは、「フィート」(1フィート=30.48センチ)のことです。これからアメリカへ行くとあって、佐野鼎はあえてあちらの国の単位を使用したのですね。しかし、日本人が読んでもその大きさが理解できるよう、注釈として尺貫法の寸法も入れています。
日記はさらにこう続きます。
<蒸気は両側の車輪にして、これを馬の力に比すれば八百馬力とし、その船の積載する重量総計二千四百八十頓(トン)、乗り組みの米人計四百余人という>
ポーハタン号の馬力や乗組員の数も取材して、しっかり記載されていることがわかります。
まさにこの1ページ目から始まる佐野鼎の『訪米日記』。初めての大航海と、まだ見ぬ異国へのあふれんばかりの好奇心や探求心が、その行間から伝わってくるような気がします。
東京タワーそばに刻まれた開国と日米親善の歴史
一方、このときの船出の光景を、次のような短歌にして残していた人物がいます。
<竹芝の 浦波遠くこぎ出でて 世に珍しき 船出なりけり>
作者は、副使である村垣淡路守範正です。
左から副使・村垣範正、正使・新見正興、目付(監察)・小栗忠順(1860年)
「こぎ出でて」という言葉から、小舟に乗ってポーハタン号に近づく際の様子を詠んだものと思われますが、幕府の中枢にいた村垣にとっても、このアメリカ行きは「世に珍しき」航海だったのですね。
実はこの歌が刻まれた「万延元年遣米使節の記念碑」が、東京タワーのすぐそば、東京都立芝公園の増上寺前に建てられていることをご存じでしょうか。
東京タワーからほど近い増上寺前に立つ万延元年遣米使節団の記念碑(筆者撮影)
この碑は今から60年前の1960(昭和35)年、日米修好通商100年を記念して建てられました。除幕式は、マッカーサー米国大使(マッカーサー元帥の甥)、東東京都知事らも参列してとり行われたそうです。
このとき、序幕の大役を担ったのは、副使・村垣淡路守範正の玄孫(やしゃご)で、当時5歳だった宮原万里子さん(旧姓・村垣)でした。
現在、「一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会」(https://www.1860kenbei-shisetsu.org)で理事をつとめる宮原さんは、当時をこう振り返ります。
「あのときは父と一緒に式典に参加しました。とても背の高いマッカーサー米国大使と握手をし、その大きな手に驚いたことを今も覚えています」
「万延元年遣米使節の記念碑」除幕式の際の一枚。村垣範正のひ孫・村垣正澄さんと娘の万里子さん(宮原万里子さん提供)
あれから60年たった今年5月、万延元年遣米使節子孫の会ではこの記念碑の横に英語訳説明板を新しく設置し、東京都に寄贈したそうです。
日米友好、160年前に築かれた礎
宮原さんは語ります。
「令和2年は、『東京2020オリンピック・パラリンピック』が開催される予定でした。そこで、日米修好通商160周年にあたるこの年、世界各国から来日される皆様に、日米友好親善の礎を築いた万延元年遣米使節の壮途を知っていただき、さらなる国際親善につながることを祈ってこの説明板を作ったのです。残念ながら今年はオリンピックが延期されましたが、この先、誰もが知っている東京タワーのもとで、多くの方に広くこの史実をお伝えできればと思っています」(宮原さん)
60年前、娘の万里子さんと共に記念碑の除幕式に参加された父親の村垣正澄さんは、現在97歳。副使・村垣淡路守範正のひ孫として家督を継ぎ、今もお元気に活動しておられます。
英語訳説明板の完成を見て感慨にふける村垣正澄さん(宮原さん提供)
日本から初の使節としてアメリカへ赴き、外交への扉を開いた万延元年遣米使節。
「世に珍しき船出なりけり」の歌が刻まれた記念碑の真後ろには、高くそびえたつ東京タワーの姿がくっきりと見えます。
そして、記念碑の向かい側には、開国のきっかけをつくったペリー提督の胸像も建てられています。
あの出航から160年・・・、世の中の価値観は大きく様変わりしましたが、未知の世界に対する人間の知的好奇心や夢は、いつの時代も同じなのかもしれません。
そんなことに思いを馳せながら、ぜひ一度、東京・芝公園の記念碑を見学していただければと思います。
(参考)一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会HP(https://www.1860kenbei-shisetsu.org/)
<「日米修好通商100周年記念碑英語訳説明板」を万延元年遣米使節子孫の会より東京都へ寄贈> (2020年5月13日)
【連載】
(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!
(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記
(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎
(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味
(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句
(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点
(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂
(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した
(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命
(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記
(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」
(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック
(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅
(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士
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