ジャーナリスト・ノンフィクション作家 柳原三佳オフィシャルサイトHP

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江戸末期、米国で初めて将棋を指してみせた日本人

開成をつくった男、佐野鼎』を辿る旅(第47回)

2020.11.18(水)

【JBPress(連載記事)はこちら】

佐野鼎

 11月17日は、「将棋の日」。1975年、日本将棋連盟がこの日を記念日に制定して以来45年間、毎年さまざまなイベントが行われてきました。

 そのひとつが、将棋の普及などに尽力した個人や団体への感謝状贈呈です。

 第46回目となる今年は、不動産デベロッパー「ヒューリック」の西浦三郎会長らが選ばれ、以下のニュースが報じられています。

(参考)『ヒューリックの西浦会長に「将棋の日」感謝状 将棋連盟』(産経新聞/2020.11.17)

https://www.sankei.com/life/news/201117/lif2011170033-n1.html

徳川吉宗の時代に由来する「将棋の日」

 では、この日がなぜ「将棋の日」になったのでしょうか?

 その由来は、江戸時代にさかのぼります。

 将棋が好きだった徳川家康は、囲碁とともに将棋を幕府の公認とし、将軍の御前で指す「御城将棋」が始まります。八代将軍徳川吉宗も将棋好きで、1716年からは11月17日(旧暦)に、毎年、御城将棋が開催されるようになったのです。

「将棋の日」は、まさにこの「御城将棋の日」にちなんで制定されたのですね。

 とはいっても、将棋は江戸時代に始まったものではなく、その起源ははるか昔にさかのぼります。

 日本将棋連盟のウェブサイトによると、将棋の起源は古代インドのチャトランガというゲームにあるという説が最有力で、ヨーロッパやアジアの各地に広がり、西洋のチェス、中国のシャンチーなど、よく似たさまざまな遊戯に発展したと考えられているそうです。

 日本では今のところ、「天喜6年(1058年)」と書かれた木簡とともに、奈良の興福寺境内から発掘された将棋の駒が最古といわれているので、将棋は大変長い歴史を持つゲームだと言えるでしょう。

米国のチェス・クラブで将棋を披露したサムライたち

 さて、ここからようやく本題です。異国の地で将棋の勝負を披露し、初めて「王手!」と声を上げた日本人は誰か、というお話しです。

 実は、その人こそ、本連載の主人公である「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」だったのです。

 幕末、1860年、日米修好通商条約の批准書をアメリカの大統領と交わすため、幕府から正式に派遣された遣米使節団。幕臣の従者として参加した佐野鼎は、この使節団の随員の一人でした。  ワシントンのホワイトハウスで大役を果たした一行は、その後、ニューヨークへ移動する途中、フィラデルフィアに立ち寄り、1週間滞在します。

 このとき、下級の随員である佐野鼎ら8名のサムライたちは、フィラデルフィア・チェス・クラブのたっての希望で、「The Athenaeum」という会員制図書館に設えられたチェス・ルームに招かれ、チェス愛好会のアメリカ人たちの前で将棋の勝負を披露したのです。

 当時のアメリカではチェスが大ブーム、中でもフィラデルフィアは最も盛んでした。チェスと将棋はもともと起源が同じなので、彼らは将棋のルールに興味津々だったのでしょう。

 羽織袴に大小の刀を差して現れた彼らは、まずチェスボードにマス目を書き加えて将棋盤を作りました。そして、来訪した日本人の中から、佐野鼎(31)と山田馬次郎(28)の二人が、自ら持参した駒を動かしながら指していったのです。

アメリカのホテルで将棋を指す日本人使節

アメリカのホテルで将棋を指す日本人使節の姿(「遊戯史研究」[2011年11月15日]より抜粋)

 このとき、アメリカの多数の新聞が、「流ちょうな英語を操り、ルールを説明した聡明な日本人」として佐野鼎の名を挙げながら、この日の模様を詳細に報じていました。

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)にもこの場面が登場しますが、結果的に、「王手!」と声を挙げたのは、使節団の中でも将棋の腕が立つ佐野鼎のほうだったようです。きっと、チェス・クラブのメンバーからは、歓声と拍手が湧きあがったことでしょう。

 当時、アメリカ人記者が書いた新聞記事では、「将棋」のことが 『Sho-ho-ye』と表記されているのですが、佐野鼎はどのような英単語を駆使してアメリカ人が誰も知らない将棋のルールを解説したのでしょう・・・、とても興味深いですね。

150年後、ニューヨーク将棋クラブの日本人がその対局を再現

 さて、1860年に書かれたこれらの新聞記事は、それから150年後、思わぬかたちでアメリカに住む将棋ファンの日本人の目に触れることになります。古い記事がきっかけとなって、なんと、フィラデルフィアで当時の対局が再現されたのです。

 偶然にもつい先日、そのイベントを主催したという「ニューヨーク将棋クラブ」の元幹事の方から、「一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会」(https://www.1860kenbei-shisetsu.org/)宛に以下のメールが届いたのでご紹介します。

<私は30年近く「ニューヨーク将棋クラブ」の幹事を務めておりました(現在は日本在住)。10年ほど前になりますが、ふとしたことから、1860年に万延元年遣米使節団がフィラデルフィア市を訪れた際に、現地のチェス・クラブで山田馬次郎と佐野鼎という二人がアメリカ人の前で将棋を指して見せたという新聞記事があることを知りました。これがおそらく外国で将棋が指された史上初めてのケースだと思われます。そこで、それを機に我々ニューヨーク将棋クラブのメンバー数人がフィラデルフィアに出向いて当時の出来事を偲んだのです。そのことについて書いた記事が以下のサイトでお読みいただけます。ご興味を持っていただければ幸いです。荻原茂孝>

(外部リンク)ニューヨーク将棋クラブの記事

 上記の記事には、佐野鼎たちが訪れた「The Athenaeum」という建物のほか、彼らが実際に対局に使用した机、当時を偲んで羽織袴で対局に臨む将棋クラブのメンバーの写真等が多数掲載されています。ぜひご覧ください。

指し手が早すぎて棋譜を残せなかったアメリカ人

 1860年6月、フィラデルフィアで行われた日本人使節とフィラデルフィア・チェス・クラブとの交流については、2011年、「遊戯史研究」に掲載された『「米国で初披露された将棋」について-1860年6月15日、フィラデルフィア-』という論文でも紹介されています。

 執筆者の布施田哲也氏は、当時のアメリカの複数の新聞記事を読み込んだうえで、次のように分析されていました。

『チェス・クラブ側は、用意周到で西洋人が米国で初めて観る将棋の棋譜を残そうと準備していたが、日本人の対局者の指し手が早く記録できない状態だった』

『西洋人が理解に苦しんだことには、局面は第三者的には複雑で優劣がつきかねるにもかかわらず、日本人はかなり早い段階で一方が敗北を認めて試合を止めてしまう(投了する)ことであった。どうして最後まで指さないのか不思議に感じており、二局目は詰め上がりまで要望していたが、王手とした局面で終了しているようである』

 そして、論文の最後にはこう書かれていました。

『インド起源のゲームが、東と西に互いに広がり変化し地球を互いにほぼ半周したフィラデルフィアで出会ったということは、ゲーム史、および将棋の歴史の中でもっと皆が知っていてよい歴史的な出来事であると思われた。(中略)米国での初めての将棋とチェスの交流が使節団の中でも佐野鼎を中心とした聡明なグループによっておこなわれたことは、日本人の第一印象を良くする事にもつながった』

 年に一度の「将棋の日」、まだ鎖国中だった幕末に、初めてアメリカで将棋を披露した日本人がいたことを、ぜひ知っていただきたいと思います。

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯

(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

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(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち

(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記

(第46回)アメリカ大統領に初めて謁見した日本人は誰か