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アメリカ大統領に初めて謁見した日本人は誰か

『開成をつくった男、佐野鼎』を辿る旅(第46回)

2020.10.30(金)

【JBPress(連載記事)はこちら】

佐野鼎

 2020年11月3日、いよいよ4年に1度のアメリカ大統領選挙が行われます。

 トランプ大統領が再選を果たすのか、それともバイデン氏が勝利するのか、メディアは今、その話題で持ちきりです。

 次の選挙で選ばれる大統領は、初代大統領となったジョージ・ワシントンから数えて46代目となります。

 ワシントンが着任したのは1789年のことなので、アメリカに「大統領」という職が誕生してから、今年で231年になるのですね。

 では、231年の歴史の中で、アメリカの大統領に初めて公式に謁見した日本人は、いつの時代の、誰だったのか、ご存じでしょうか。

 実は、その歴史的な人物の玄孫にあたる方が、先日我が家にお見えになり、興味深い歴史談議に花が咲きました。

『一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会』(https://www.1860kenbei-shisetsu.org/)で知り合った、新見正裕さん(59)です。

 今回はそのときのお話しの中から、新見さんのご先祖が残した功績と、彼が結んだ日米両国交流のエピソードをご紹介したいと思います。

38歳で初の遣米使節団を率いた新見正興

 まずはこの写真を見てください。
(配信先サイトでご覧になられている方はこちらを参照:https://jbpress.ismedia.jp/articles/gallery/62726?photo=2)


ワシントン海軍工廠での使節団:正使:新見正興(中央)、副使:村垣範正(左から3人目)、監察:小栗忠順(右から2人目)、勘定方組頭:森田清行(前列右端)、外国奉行頭支配組頭:成瀬正典(前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役:塚原昌義(前列左端)<Wikipediaより>

 これは、1860年、明治維新の8年前に、ワシントンの海軍工廠で撮影された記念写真です。

 本連載の中でもたびたび取り上げてきましたが、ここに写る彼らは、日米修好通商条約の批准書を交わすため、幕府から派遣された遣米使節団(総勢77名)を率いる高官たちです。

 この中の、さらにトップである「正使」が、前列右から3人目、新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)です。

 当時38歳という若さですが、17歳で将軍・家慶の御小姓となり、長年、将軍の側近くに仕えてきた由緒ある旗本の殿様とあって、その姿には凛とした風格が漂っています。

 正興はこの前年、外国奉行(今でいう外交官のような職)に抜てきされ、首席全権としてアメリカ行きの大役を引き受けることになったのです。

 とはいえ、当時の日本はまだ鎖国中です。国内では「攘夷」の声も高まっており、この時代の外国奉行は大変難しい役回りだったことが想像できます。

 その上、長い日数をかけて船や蒸気機関車を乗り継ぎ、誰も経験したことのない「海外出張」を命ぜられたのですから、正直、もろ手を挙げて喜べるような心境ではなかったことでしょう。

 しかし、江戸を発ってから約3カ月後、一行は無事、アメリカの首都・ワシントンに到着します。そして、1860年5月17日(西暦)、ホワイトハウスを訪問した新見正興は、その役目を立派に務め上げたのです。

ホワイトハウスで大統領に謁見

『万延元年のアメリカ報告』(宮永孝著、新潮選書)の中には、正興が正使として、第15代のジェームズ・ブキャナン大統領に対面し、高らかと読み上げた挨拶文の訳が次のように記されていました。

<先頃、日米両国間で修好条約が結ばれ、このたび自分が条約を批准するため貴国の首都ワシントンに遣わされましたが、これより両国の友好関係がますます親密になることを祈ります。往還に貴国の軍艦を用意くださったことを感謝いたします>

 そして、通訳を介してその口上を受け取ったブキャナン大統領は、次のように答えたそうです。 <通商条約の批准は日米両国民に裨益するところ大であり、きっと幸福をもたらすでありましょう>

ホワイトハウスでブキャナン大統領に謁見する使節団の面々

 実は、「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」も、従者の一人としてこの遣米使節団に随行していました。

 彼の『訪米日記』にも、もちろんこの日のことが綴られています。

 しかし、身分の低い者たちは、ブキャナン大統領と正使である正興のやりとりを直接間近で見ることは叶わなかったのでしょう。佐野の日記には、上記のやり取りではなく、「大統領を市民が“入れ札”で選ぶ」、つまりアメリカの選挙制度への驚きについて、行数を割いて綴られていました。

 その内容については、本連載「開成をつくった男、佐野鼎を辿る旅」の第44回『幕末、米大統領に会い 初めて「選挙」を知った侍たち』(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62118)に書いた通りです。

外国人暗殺のたび、謝罪と賠償に奔走した外国奉行

 正興の玄孫である、新見正裕氏は語ります。

「遣米使節の一行はアメリカで大歓待され、ニューヨークのブロードウェイでは華々しいパレードも行われました。しかし、日本に戻ってからの正興は、外国奉行として本当に苦しい思いをしたようです。たとえば、アメリカから帰国してまもなく、ハリスの通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケンが薩摩藩士に襲われ、死亡する事件が発生しました。このとき、葬儀の責任者を務めたのは正興でした。結局、幕府は遺族に1万ドルの弔慰金を支払うことでなんとか事を収めたようですが、そうした交渉にもかなり骨を折ったのではないかと思います」

 混乱期にあった幕末の日本では、その後も、外国人の暗殺や公使館の焼き討ち事件が相次ぎ、そのたびに外国奉行だった正興は後始末に奔走していたのです。

「正興は外国船応接役として、渡米前からアメリカ、イギリス、フランス、オランダなど各国の公使と交渉していましたが、おそらく、最も辛かったのが、この文久年間だったと思われます。桜田門外の変以降、情勢が変わって攘夷の空気が強まったため、予定していた港の開港を遅らせるなど後ろ向きの交渉が多くなる中、開港への要求を強める各国公使と攘夷の要求を強める朝廷との板挟みで、神経が擦り切れる毎日だったと推測されます。事実、外国奉行の中には、窮地に立たされて切腹した人もいたのです」(正裕さん)

 その後、新見正興は1862(文久2)年、御側衆(おそばしゅう)にまで出世します。この役職は、将軍の傍で殿中のことを処理する重要な職務で、正興は実際に、将軍・家茂が上洛の際にその御供もしています。

 将軍からの信頼は相当厚いものがあったのでしょう。

 しかし、国内の情勢が大きく揺れ動く中、正興はアメリカでの貴重な体験を生かすことができないまま明治維新を迎え、大身の旗本だった格式高い新見家は、他の武家同様、没落してしまいます。

 そして1869(明治2)年、正興は病に倒れ、亡くなります。享年47歳でした。  時代の流れとはいえ、どれほど無念だったことでしょう。

 正興亡き後、困窮した遺族の運命も、また波乱に満ちたものでした。

 3番目の妻との間に生まれた3人の娘のうち、次女と三女は芸者となり、花柳界でその名を馳せます。

 公家の柳原前光に見初められた三女・おりょうが産んだ子(つまり正興の孫にあたる)が、大正三美人の一人で歌人としても名高い、あの柳原白蓮です。


歌人・柳原白蓮は新見正興の孫にあたる(Wikipediaより)

 ちなみに、話は少しさかのぼりますが、正興の父である新見正路(1791-1848/実際には伯父にあたるが養子となった)は、大坂西町奉行として、また天保改革期の将軍・家慶の側近として名高い人物でした。

 現在の天保山は、正路が在任時に取り組んだ川の浚渫(しゅんせつ)工事のときに、掘った土砂を積み上げてできたものだそうです。

50周忌には米国大使や渋沢栄一も墓参

 さて、日本史の教科書ではその名をあまり見ることのない新見正興ですが、アメリカでは、日米外交の歴史の中で、誠実な仕事をしたエキスパートとしてその名がしっかり刻まれています。

 それが証拠に、正興の50回忌に当たる1918(大正7)年2月12日には、アメリカ全権大使のローランド・モーリスが、東京中野区の願正寺で新見正興の墓を参っているのです。

 以下の写真は、正裕さんからご提供いただいたものです。 (https://jbpress.ismedia.jp/articles/gallery/62726?photo=5) (https://jbpress.ismedia.jp/articles/gallery/62726?photo=6)


新見正興50周忌の墓参の様子。中央がモーリス大使、左から3人目が正興の孫・正靖さん、モーリス大使の右が金子堅太郎(写真提供:新見正裕氏)
同じく正興の50周忌の際の写真。右から2人目の帽子を被った男性が渋沢栄一(写真提供:新見正裕氏)

 このとき、新見家からは、正興の2番目の妻の娘であるせきさん、のぶさん、義娘のそやさん、孫の正靖さんが参列しています。そして、日米協会からは、初代会長である金子堅太郎のほか、間もなく1万円札の肖像となる渋沢栄一の姿も見られます。

 さらに、遣米使節がアメリカを訪れてから100周年にあたる1960(昭和35)年には、駐日大使のダグラス・マッカーサー2世が、正興の墓を訪れ、献花を行いました。

 新見正興を正使とした遣米使節が、いかにアメリカの人々の記憶に残っているかがよくわかる出来事ではないでしょうか。

 日本人として、最初にアメリカ大統領と謁見した外国奉行、新見豊前守正興。彼が近代の日米外交に果たした役割の大きさを、この機会にぜひ知っていただきたいと思います。

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

(第40回)幕末の裏面史で活躍、名も無き漂流民「音吉」の生涯

(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

(第42回)ツナミの語源は津波、ならタイフーンの語源は台風?

(第43回)幕末のベストセラー『旅行用心集』、その衝撃の中身

(第44回)幕末、米大統領に会い初めて「選挙」を知った侍たち

(第45回)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記