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「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記

『開成をつくった男、佐野鼎』を辿る旅(第45回)

2020.10.14(水)

【JBPress(連載記事)はこちら】

佐野鼎

 10月14日は、「鉄道の日」です。

 この日は、日本初の鉄道が1872(明治5)年に、新橋~横浜間で正式に開通した記念すべき日で、「鉄道が広く国民に愛されるように」という願いを込めて、平成6年に制定されました。

 残念ながら今年は新型コロナウイルスの影響で、日比谷公園で予定されていた「第27回鉄道フェスティバル」をはじめ、多くのイベントが中止となってしまいましたが、それでも、全国各地のJRや私鉄では、「鉄道の日」にちなんだフリー切符など、さまざまな企画が楽しめるようです。

<予定されているイベントは、『TETSUDO.COM』(https://www.tetsudo.com/)などで見つけられます>

馬車がなかった時代に蒸気機関車を目の当たりにした日本人たち

 さて、冒頭でも書いた通り、日本で鉄道が稼働したのは明治に入ってからのことでしたが、それより10年以上前の幕末期に、アメリカ大陸を蒸気機関車で大移動した日本人たちがいたことをご存じでしょうか。

 1860年、新見正興(しんみ・まさおき)を正使、村垣範正(むらがき・のりまさ)を副使、小栗忠順(おぐり・ただまさ)を目付として、幕府が日米修好通商条約の批准書交換のためにワシントンへ派遣した、総勢77名(途中で1名帰国)の遣米使節団です。

 本連載の主人公である「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」も、この使節団の従者として地球一周の行程に随行し、詳細な日記を書き残した一人でした。

 そこで今回は、日本に「鉄道」はもちろん「馬車」すらなかった時代に、異国の地で初めて「蒸気機関車」に乗った日本人が、その驚きをどのような言葉で表現し、観察していたかについて、見ていきたいと思います。

 万延元年遣米使節団は1860年1月、アメリカの軍艦・ポーハタン号に乗って江戸を発ち、大しけの太平洋を横断しながら、ハワイ、サンフランシスコを経由して、78日目の閏3月6日に、赤道にほど近い灼熱のパナマに到着します。

 今でこそパナマ運河を通れば、太平洋側から大西洋側までを船で移動することができますが、この頃はまだ運河の工事が始まっていなかったため、一行はここで一旦下船し、約75キロの道のりを「パナマ鉄道」に乗って、大西洋側のアスペンウォール(現在のコロン)まで横断することになったのです。

 当時の日本はまだ鎖国中でしたが、1850年代の初めに、アメリカのペリーやロシアのプチャーチンは、すでに蒸気機関車の模型を日本に持ち込み、試運転も行われていました。ですから、幕府の中心にいた高官や佐野鼎のように蘭学を積んで西洋の事情に精通した若者たちは、「蒸気機関」の仕組みについては、すでによく理解していたと思われます。

 とはいえ、実物の蒸気機関車に乗ったことのある日本人は、ジョン万次郎のような漂流者を除いて、まだ誰もいませんでした。

「蒸気車」「火輪車」と表現された蒸気機関車

 さて、佐野鼎が記した『万延元年訪米日記』には、パナマ駅で使節団が蒸気機関車に乗る場面から、終点に到着するまでの約3時間の行程が詳細に記録されていました。

 初めて目にした本物の蒸気機関車を指す言葉として、彼の日記には、「蒸気車」と「火輪車(かりんしゃ)」の2種類が登場します。幕末には、蒸気機関で動く船のことを「蒸気船」または「火輪船」と呼んでいたので、自然とこの表現になったのでしょう。

 では早速、日記の中身を見ていきましょう(*読みやすくするために、使節らの日記を一部現代語に訳して抜粋、構成しています)。

『パナマ港に着くと、ポーハタン船と港に停泊していた他の二隻の軍船が祝砲を発した。着岸すると、当地の黒人及び在留のヨーロッパ人らが、競い合って見物に出ていた。上陸後は、直ちに大きな小屋のようなところに入る。これがすなわち、蒸気車の路の始まりであり、車もここに在って私たちを待っている。直ちにこれに乗り入る』

 駅の周辺には、遠い東の島からやってきた丁髷のサムライたちの姿を一目見ようと、多くの見物人が集まっていたようです。

 その中を移動した日本人使節たちは、「大きな小屋のようなところ」つまり、始発駅であるパナマの駅舎の中で、日米両国の国旗を掲げて停車していた巨大な蒸気機関車を初めて目にしたのです。


パナマ駅に侍たちを一目見ようと集まった人々の図(『玉蟲左太夫「航米日録」を読む』から抜粋)

 発車前、佐野鼎はその車体や客車の中の設えだけでなく、初めて見るレールや枕木の形状も、次のようにしっかり観察していました。

『鉄道の幅は、上の車の幅に同じくして、土地を平坦にし、その上に二列の角なる鋳鉄の柱のようなものを置き、ところどころ、横に細い鉄柱を、左右に開かざるように組み合わす』

蒸気機関車の「轟音」と「振動」に驚きながら

 76人の日本人使節と、ポーハタン号から降ろした大量の荷物を積み込んだ蒸気機関車は、いよいよパナマ駅を発車します。

佐野鼎たちが乗り込んだパナマ鉄道の図(『玉蟲左太夫「航米日録」を読む』から抜粋)

 このとき、佐野の親友で、肥後(現在の熊本)藩士の木村鉄太は、自身の日記に『蒸気車(ステエムカル)』とカタカナ表記を入れ、『蒸気車機関のカラクリは蒸気船と同じである』と説明したうえで、次の一文を綴っていました。 『朝九時、先行の車が蒸気を起こして発動した。次の他の車もこれに従って、徐々に蛇のように進んでいく』  なるほど、彼には車両をいくつも連結して、列車が線路の上をくねくねと進んでいくそのさまが、「蛇」に見えたのですね。

 蒸気と煙を噴き上げながら動き出した汽車の中で、彼らがまず驚いたのは、その音のやかましさと激しい振動、そして、生まれて初めて体験する「スピード」でした。

 使節団のナンバー2である副使の村垣は、こう記しています。

『車の轟音、雷鳴はためくごとく、左右を見れば三四尺の間は草木も縞のように見えて、見とまらず(中略)、さらに話も聞こえず、殺風景のものなり』

 佐野も例にもれず、汽車の音を「雷」にたとえていました。

『その轟く音、雷鳴のごとくにして、前後相並ぶ人と言えども、言語相聞くべからず』

 振動の激しさや未体験の速度への驚きについては、他にもこんな表現が見られます。

『鉄路ははなはだ平坦なるも、激動は激しい。窓の外には樹木または人畜、共に見えるが、樹木はその数を分かちがたし。数丁行くにつれ次第に速度が出て、遂に矢の飛ぶように速く、窓に近い草木や砂礫は見つめることもできない』(佐野鼎)

『遠いところの山岳や渓谷は、たちまち現れたちまち隠れ、千風万景を変化させる』(木村鉄太)

『沿線の景色は珍しいが、蒸気車があまりに早いので何も見ることができなかった』(玉蟲左太夫)

 日本ではもっぱら徒歩や船で移動していた彼らにとって、行く先々で景色を愛でることは、やはり旅の醍醐味のひとつだったのでしょう。速度が速すぎて車窓の風景をのんびり楽しめないことについては、多くの使節が少々残念な気持ちを綴っていました。


木村鉄太が日記に記した「火輪車」の図

 まさに、日本人が本当の意味での「スローライフ」を満喫できたのは、この時代が最後だったのかもしれませんね。

 しかし、中米パナマの蒸し暑さに参っていた彼らにとって、疾走する汽車の窓から流れ込んでくる風は、思いのほか気持ちがよかったようです。

『蒸気車の行動中は、前面より風を生じて大いに涼し。これ、車が疾行するによりて、かくのごとし。しかしながら、眼中に塵埃が入るのには大いに当惑する。ゆえに他の国の人の多くは、常に眼鏡を用意するものあり』(佐野鼎)

 顔面にまともに吹きつける蒸気機関車の炭塵には、やや閉口したようですね・・・。

鉄道に沿って設置された「テレグラフ」への驚き

 佐野鼎は、パナマからアスペンウォール(*現在のコロン)を結ぶ鉄道に沿って、柱が等間隔に立てられていることも見逃しませんでした。これは、当時としては最先端だった「テレグラフ」の電信柱だったのです。

『鉄道の路傍には、テレガラーフの銅線を通ず。急用のあるとき、一方にて合図を成せば、他側へ瞬間に通ずるなり。今朝も火輪車の出発以前に、その合図をアスペンヲルになしたり。これによりて彼方にては、おおよそ何時頃の着ということをあらかじめ知るなり』

 75キロも離れた場所まで、電気信号を使って瞬時に文字データを伝えることができる・・・。

 今から160年前、この最新テクノロジーを目の当たりにした佐野鼎は、いったい何を思ったでしょう。そして、あと何年たてば、日本でも鉄道や電信が当たり前のように普及するとみていたのでしょうか。

 10月14日の「鉄道の日」、異国で蒸気機関車を初めて体験した幕末の侍たちに思いを馳せてみるのも一興ですね。

【連載】

(第1回)昔は男女共学だった開成高校、知られざる設立物語

(第2回)NHK『いだてん』も妄信、勝海舟の「咸臨丸神話」

(第3回)子孫が米国で痛感、幕末「遣米使節団」の偉業

(第4回)今年も東大合格者数首位の開成、創始者もすごかった

(第5回)米国で博物館初体験、遣米使節が驚いた「人の干物」

(第6回)孝明天皇は6度も改元、幕末動乱期の「元号」事情

(第7回)日米友好の象徴「ワシントンの桜」、もう一つの物語

(第8回)佐野鼎も嫌気がさした? 長州閥の利益誘導体質

(第9回)日本初の「株式会社」、誰がつくった?

(第10回)幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見る

(第11回)これが幕末のサムライが使ったパスポート第一号だ!

(第12回)幕末の「ハワイレポート」、検証したら完璧だった

(第13回)NHKが「誤解与えた」咸臨丸神話、その後の顛末

(第14回)151年前の冤罪事件、小栗上野介・終焉の地訪問記

(第15回)加賀藩の採用候補に挙がっていた佐野鼎と大村益次郎

(第16回)幕末の武士が灼熱のパナマで知った氷入り葡萄酒の味

(第17回)遣米使節団に随行、俳人・加藤素毛が現地で詠んだ句

(第18回)江戸時代のパワハラ、下級従者が残した上司批判文

(第19回)「勝海舟記念館」開館! 日記に残る佐野と勝の接点

(第20回)米国女性から苦情!? 咸臨丸が用意した即席野外風呂

(第21回)江戸時代の算学は過酷な自然災害との格闘で発達した

(第22回)「小判流出を止めよ」、幕府が遣米使節に下した密命

(第23回)幕末、武士はいかにして英語をマスターしたのか?

(第24回)幕末に水洗トイレ初体験!驚き綴ったサムライの日記

(第25回)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」

(第26回)幕末、アメリカの障害者教育に心打たれた日本人

(第27回)日本人の大航海、160年前の咸臨丸から始まった

(第28回)幕末、遣米使節が視察した東大設立の原点

(第29回)明治初期、中国経由の伝染病が起こしたパンデミック

(第30回)幕末の侍が経験した「病と隣り合わせ」の決死の船旅

(第31回)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎

(第32回)「黄熱病」の死体を運び続けたアメリカの大富豪

(第33回)幕末の日本も経験した「大地震後のパンデミック」

(第34回)コロナ対策に尽力「理化学研究所」と佐野鼎の接点

(第35回)セントラル・パークの「野戦病院化」を予測した武士

(第36回)愛息に種痘を試し、感染症から藩民救った幕末の医師

(第37回)感染症が猛威振るったハワイで患者に人生捧げた神父

(第38回)伝染病対策の原点、明治初期の「コレラ感染届出書」

(第39回)幕末の武士が米国で目撃した「空を飛ぶ船」の報告記

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(第41回)井伊直弼ではなかった!開国を断行した人物

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